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菊帝悲歌: 小説後鳥羽院 (河出文庫)
プロローグからの隠岐へ
ママ「あのね8月の隠岐の件だけど、あれ、わたしキャンセル……」
それは歳の離れたお友達、後鳥羽院単推しの例のママからの唐突な電話だった。
ママとは前年(2022)中に隠岐再訪を計画していたものの、私の身辺でのゴタゴタ続きなどで結局行けずに終わった。それゆえ今年は早いうちから隠岐再訪の計画を立てていたのだが、果せるかな、6月半ばにママを再びアクシデントが襲った。なんでも道端を歩いてる最中に転倒→しばらく寝たきりの状態が続いていたという。曰く「2週間くらい寝込んでて、今はもう一人で歩けるようになったんだけど……」とのことだが、それでも8月までに遠出できるほど回復するのは難しいという判断だった。そもそも某ウイルス蔓延以降、ママは以前にもまして体調を崩したりたびたびアクシデントに見舞われたりしていた(cf,【とはずがたり】「『明月記』の後鳥羽院」よもやま話「ママ、クルマにはねられる」など)。
さすがにこれ以上、この老婆に無理はさせられない。そこで、完全に「今年の夏は隠岐」モードだった私は断腸の思いで決断するしかなかった。
甚之助「わかりました。じゃあ今回は僕一人で行ってきます。ママの代わりに尊成ちゃん(後鳥羽院)に挨拶してきます!」
そんなこんなで8月になり、私は一人、北海道から飛行機を乗り継ぎ島根県は出雲市に降り立った……が、降り立つと同時に膝から崩れ落ちたことは言うまでもない。
「暑ッ!!」
今夏も酷暑が続く日本列島。北海道ももれなく暑い日が続いていたが、青森以南のいわゆる「内地」の暑さは道産子には厳しいものがある。ましてや山陰地方は湿度も高めだ。加えてこの時、沖縄奄美地方を台風6号が直撃しており、余計に蒸し暑さを感じた。
出雲空港から松江へ向かうバスの中は冷房がしっかり効いていたが、車窓からの風景を眺めるだけでも北国の人間の身体には堪えられない暑さを感じる。
実際、松江で一泊した翌朝、すでに私はフラフラの状態だった。
これからフェリーに乗るというのに、だ。正直この時は途中で倒れてしまわないか、不安しかなかった。
例によって七類港よりフェリーに乗る。
今回も前回同様「くにが」号で島前へ。
注:手前に大きく映るのは「おき」号で、奥が「くにが」号です。
お盆の帰省時期も近く、また観光シーズンということもあって、船内はかなり混雑していた。
甚之助「これ、ママは連れてこなくて正解だったかも……」
ママもママで暑いのには弱い方だ。多分その体調を気遣いながらの旅路となれば、私の方が参ってしまっていただろう。
そうだ、今回ママが来られないということで代わりの相棒を連れてきたのだ。
それがこちら、
みづまろくん!
前回のフィールドワーク編で訪れた「水無瀬神宮」のある大阪府島本町の公式マスコットキャラクターである。隠岐、そして今後再訪予定の佐渡・阿波へも同行してもらおうと昨年我が家にやってきた。なんでも今では島本町のふるさと納税の返礼品にも選ばれているほど人気なんだとか。。。
それはさておき、今回はこんな力強い(?)相棒もいるのだから弱音を吐いていられない。
さて例によってだんだんと隠岐・島前の島々が近づいてきた。
先述のとおり、今回は沖縄奄美に台風が来ていることもあってか、大分距離が離れているとはいえ少し波もうねっていてフェリーもそこそこ揺れた。
だが、島前のカルデラの中に入るとその波も静かになる。
そして相変わらずの海の青さ!
そんなこんなをしているうちに、いよいよ中ノ島・海士町へ。
隠岐、ふたたび… pic.twitter.com/DBt8gml5QM
— じんのすけ@ねと見! (@netken_jin) August 7, 2023
で、着きました。
しばらく菱浦の街を散策。
小泉八雲先生ご夫妻も、ご無沙汰しております~。
……と、海士町について早々の小一時間は基本的に菱浦港にある「キンニャモニャセンター」の中とその周辺を行ったり来たりした。この暑さの中をはしゃぎまわっていては絶対に身体が持たない。
センター内に貼られているイベント告知の数がスゴイ。これをみるだけでも活気の良さはもちろん、地元の方々が活性化に向け前向きに努力奮闘している姿が想像できる。私も田舎住まいだが、こうした熱量に頭が下がる。
そうこうしているうちに、事前にお願いしていたお迎えがきた。
前回同様、ご夫婦でタクシー業を営むIさんにクルマをお願いしたが、実は前回は奥様にお世話になり今回は旦那様にお世話になることとなった。しかも前回時、旦那様は後鳥羽院を中心に郷土史の研究もされているという話しを窺っていたので、5年前の隠岐来訪のことを皮切りに乗車早々から話しに花が咲いた。
後鳥羽院のことはもちろん、郷土史のこと和歌のこと、話しは縦横無尽に飛ぶ。なんでも旦那様、かつて別の仕事についていたときに佐渡には行ったことがあるという。しきりに佐渡・真野町の話しをされていたことが印象的だった。もっとも真野が順徳院の御在所および崩御の場所と確定できる根拠が不透明であることは以前書いたが、やはりそこに思いを馳せる人の気持ちにアツいものを感じる。
Iさん「でも徳島はまだ行けていないんだよねぇ」
甚之助「私は佐渡の後に阿波もめぐりましたよ。まずご挨拶がてら香川の崇徳院に詣でてから阿波へ。でも今度行く時は最初に土御門院が赴いたという土佐からのルートにしようかと・・・」
Iさん「そういうルートも面白いねぇ」
"後鳥羽"というキーワードは、とにかく円滑に話しをすすめる。
……とここで、私が地元・海士町の人しか知らないようなニッチな話題を出した。すると、
Iさん「そんな話しどこから仕入れてくるの?」
甚之助「実はSNS上でつながっている海士在住の知人がいまして・・・ネット上での付き合いは長いんですが、今日夕方、初めて会う予定なんです」
Iさん「へぇ~そうなんですかぁ。でも誰だろ?」
甚之助「××にいらっしゃる○○さんなんですが・・・」
Iさん「ああ、○○ちゃんね! なるほどなるほど。あの子も歴史ものとか好きだからね~。なにより勉強熱心な子なんだよ」
はい、ここで登場した「○○さん」というのは、X(旧twitter)で相互フォローをいただいている「gotoba-inn.com(元・隠岐後鳥羽院大賞)」さんのことである(以下、「元大賞さん」と表記)。
元大賞さんと知り合ってからというもの、海士町のことはじめ後鳥羽院がらみのことでもそれまで知りえなかった情報に接する機会が格段に増え、また後鳥羽院や承久の乱、和歌や定家卿などに関心をもつ方々とも知り合えたり、「藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿」シリーズの大トリをつとめてもらったりと、ここ数年の後鳥羽院がらみではとにかくお世話になっている方なのだ。
元大賞さん然りIさん然り、今回の隠岐再訪はその初っ端から、なんだか旧友に久しぶりに会いに来た、そんな感じがしてたまらない雰囲気に包まれていた。
「お腰掛けの石」のこと
そんなこんなで今回の最初の目的地にして最大の目的地、海士町崎地区に到着。
前回記事でも少し触れたが、ここ崎地区は後鳥羽院が上陸した斎船の地である。地区の中心に鎮座する三穂神社(美保・美穂などとも表記されるが今回は「三穂」で統一する)は、院が隠岐での第一夜を明かした場所だ。
前回来た際、拝殿の前に「けもの道のような坂道」があると書いたが、先ほどのIさんによればその道こそが本来の参道だという。だが本来の参道から登るには海に面した港側に回る必要があったので、後年裏手側からも登れるようにもう一つの参道を後拵えしたとか。
どおりで急なワケだ。
本来の参道側から。
この日は晴れるには晴れていたが、結構薄い雲もひろがっていた。とはいえ後光がさしたように、昼下がりの陽射しに社殿は相変わらず映えていた。前回時、私自身かなりの勉強不足状態だったので分からなかったが、こちらの三穂神社の主祭神は「事代主命」だったりする。さすが出雲の国という感じだ。それを想起させるように、後述するがこの崎地区には「国引き神話」も残っている。
奥宮の袂には後鳥羽院の歌碑がある。
「命あればかやが軒端の月をみつ
知れぬは人の行く末のそら」
『遠島御百首』の100番歌。この歌の冒頭は底本によって異同があり、後鳥羽院『遠島御百首』私見シリーズで底本とした写本では「かぎりあれば」となっている。ちなみに「命あれば」は『増補隠州記』などにみられる。
さてここで一度三穂神社を離れ、今回の隠岐行最大の目的地へ。
神社のある小高い山(?)を降り、港湾に沿って歩く。
するとこんな道に出くわすのだが、まずは写真中央部へ。
ここには「御着船の地」を示す碑がある。
ついで写真右部へ。
こんな標識の先にあるのが・・・
「お腰掛けの石」である。前回、寸前のところまで来ていて見られず終いだったこの石を、5年かけてやっと見に来られた!
前回記事では詳説を省いたが、ここで崎および三穂神社について。
承久の乱後、隠岐配流となった後鳥羽院の一行は現在の島根県美保関より出航、隠岐・中ノ島の崎へと到着した。伝承によればその時すでに夕刻だったため、従者がその日泊まれる宿を探してまわった。その間、院が腰掛けていたとされるのが「お腰掛けの石」だ。宿に関しては、院が泊まれるほど格式高い家がなかったために、その晩は三穂神社にお泊りになったという。この伝承から、周辺は「宿乞(やどこい)」とも呼ばれている。
2021年、海士町の後鳥羽院遷幸八百年の事業では、崎地区にて神迎祭が催された。
詳しくは以下のリンクから。元大賞さん撮影の動画なんかもあります。
↓↓↓
●【神迎祭】後鳥羽上皇が海士町にご遷幸され、800年が経ちました - 海士町みんなのnote
「御着船の地」碑上方から三穂神社全景。写真右側に見えるのが本来の参道。小さいが中腹には鳥居もあり、その袂には「戎神社」がある。また山頂付近にみえる巨大な風力発電の風車は高さ80m超。翼は40mを越えるという。
で、今回も前回同様、帰りは島内巡回バスで菱浦まで帰る予定だが、バスが来るまで結構な時間ができた。いや正確には意図的にそう算段していた。
ママが一緒の前回、私は案内される側だった。で、ママ自身は目的地以外に皆目興味がない人で、そこが歴史的or貴重な場所だろうが人気のスポットだろうが「興味ない」とまったく意に介さない人である。それに前回は、ママがすっかり三穂神社を気に入ってしまった姿を目の当たりにしていたので、時間の許す限りじっくりとその空間を味合わせてあげたかった。
だが今回は私と「みづまろくん」のコンビである。前回時、私は三穂神社はもちろん、それ以上にこの崎地区の風景や空気感がとても気に入ってしまったので、今回は時間になるまで一人ブラブラと地区内を散策することにした。……だが、港を離れると民家がぎっしり山肌にひしめいているようなところなので、失礼にならないよう写真は撮らなかった。
途中、崎にある簡易郵便局で自分宛てにハガキを出してみた。
ただでも悪筆なのに、汗のせいで異様に書きづらくてトンデモナイ筆跡になってしまった(笑) 先述のとおり、崎地区の民家は山肌にひしめくように建っているが、必然アップダウンばかりの路となっている。もちろん平場もあるがそう多くはない。多少薄い雲がひろがっているとはいえ炎天下に変わりなく、潮風も相俟ってすでに汗だく状態だったのである。
さて崎地区の最後に、先ほども少し触れた「国引き神話」について。
三穂神社のすぐ隣に「くにびき神話佐伎の里」という立派な石碑を掲げる公園がある。
まず出雲の「国引き神話」は『出雲風土記』の冒頭「意宇郡(おうぐん)」にある伝承だ。
ざっくり要約すると、
八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が出雲国が小さすぎるので、近くにあった余分な土地を切り離し綱をかけ「国来、国来(くにこ、くにこ)」といいながらひっぱりくっつけてできたのが現在の島根半島となった。
というお話しなのだが、詳細を書いていたらあまりに煩雑になるので割愛する。で、そこに登場する「北門の佐伎(きたどのさき)」が海士町・崎にあたるとされ、その記録は平城京跡出土の木簡などにもみえるという(『海士町歴史文化基本構想』、『神々の国しまね~古事記1300年~』公式ガイドブックなど。ただし諸説アリ)。
さてこの「佐伎の里」の碑は「中良(なから)公園」入口付近にある。現地説明板によれば、もともとここは戦国時代に毛利家の家督争いに巻き込まれ移住・隠遁した渡邊家(屋号:中良)の屋敷跡だったとのこと。先祖代々地元の名家として、崎の住民と協力しながら地域の発展興隆に努め、屋敷跡は平成12年に海士町管理のもとで公園として整備された。13代目にあたる渡邊新太郎氏は本土と隠岐を結ぶ「隠岐汽船」の初代社長である。
公園中心部の木。永年潮風に当たっているためか、すごい形をしている。
みづまろくんと三穂神社。撮り忘れるとこだった(笑)
島内巡回バスで菱浦へ。ブレブレになってしまったが、車窓から見える島前カルデラはやはり圧巻!
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未来を変えた島の学校――隠岐島前発 ふるさと再興への挑戦
隠岐の夜
元大賞さん「えッ、ママってお母様では……ない?」
甚之助「はい、アカの他人です(笑)」
事あるごとに書いているが、今でも勘違いされている方が結構いらっしゃるので改めて説明しておこう。このサブブログ『甚之助の小屋』内、特に「後鳥羽院project」シリーズのキーパーソンの"ママ"というのは私の実母ではない。私と元妻が婚前足繁く通っていた喫茶店のママである。喫茶店のママだから"ママ"なのだ。ちなみに私はママから"先生"と呼ばれている。元の職業がらみで"売れる見込みのない作家先生"を略して"先生"となっている。更にちなみにだが、私は「先生」=「学校の先生」→特に高校までの先生というものに大変な嫌悪を抱いているので、自分が「先生」と呼ばれることも当然のように嫌いだ。ただ例外的にママと元妻とごく限られた人にだけは許している次第。ただし、嫌悪の対象とはいえ、中には尊敬していたり感謝をしている先生もいることだけは付け加えておこう。
閑話休題。
SNS上ではもちろん、オンライン会議(飲み会?)なんかでは交流があるものの、こうして顔を合わせるのは初めて(前回時にはもしかしたらすれ違っていたかもだが)の元大賞さんとの邂逅。
前々より「夕飯でもご一緒に~」とお誘いしており、加えて「オススメのお店を紹介してください」とご依頼していたこともあり、やっとお会いすることができた。お仕事帰りのお忙しい中、お時間を作ってもらって恐縮する限り。
そこで冒頭のやりとりなのだが、元大賞さん、転んでしばらく動けなかったママの平癒のため、三穂神社の神璽を用意してくれていたのだ。
後日、ママに電話でこのことを伝えたら大喜びしていた。ただし、ものがものだけに郵送等は行わず、今度顔を合わせる機会まで私が保管することになった。
とまあそんなこんなで、ご飯を食べながら後鳥羽院やら和歌のこと、今読んでいる本のこと、それと多少のお互いのプライベートのことなどいろいろと話しをした。
その中でも特に印象に残ったのはやはり和歌に関するもので、なにより元大賞さん自身歌を詠まれる方なので話しの一つひとつに深みがあった。私も以前から和歌・短歌に関していろいろ勉強はしているものの、歌を詠むのは正直ハードルが高く、詠めるというだけでも「凄ッ!」の一言しか出てこない。
そしてこの元大賞さんは後鳥羽院に限らず、和歌にご縁のある場所もさまざま巡られている。で、私のプライベートの名刺をお渡しした際、ハンドルネーム(以下、HN)について、
元大賞さん「本名と全然違いますね」
と案の定驚かれた。
これはどこかで書いたことかもしれないが、私のHN「甚之助」は先祖の名前である。この甚之助が生まれたのは、現在の岐阜県郡上市で、生家跡のある一帯は「古今伝授の里」と呼ばれている。また我が家の初代は、承久の乱の功績によって一帯の地頭に任ぜられた東胤行の従者だったと伝わっている。この東胤行は定家の子・為家より歌道を伝授され、後代の東常縁から連歌師・宗祇へ歌道伝授されたことから、その周辺が「古今伝授の里」として呼ばれるようになったという。奇しくも、こんなところに私と三上皇および定家卿との接点があるのだ。
リアル甚之助。明治10年代に撮影された写真で、本人はこの時20代後半。
リアル甚之助自身が歌を嗜んでいたという話しは聞いていないが、我が家には江戸期に地域の人々が詠んだ俳諧を集めた(らしい)綴りが残っている。
私自身、郡上市には何度も訪れているし、元大賞さんもまた「古今伝授の里」めがけて郡上市を訪れたことがあるという。自然、郡上市周辺の話題に移ったのだが、元大賞さんの郡上探訪の際のエピソードがまた秀逸だった。曰く、長良川鉄道で郡上へ赴いたとのことだが、行きはいいものの帰りで下り列車に乗ってしまったらしい。……お判りいただけるだろうか? ローカルネタで申し訳ないが、そのエピソードに二人して「アワワワワワ……」となってしまったことは言うまでもない。
で、食後、元大賞さんの案内で菱浦の街をブラっと散歩した。
まず訪れたのは、2021年に開業しメディアでも大々的に取り上げられた中ノ島唯一のホテル「Entô」だ。こちら、前回時に私も泊まったホテル「マリンポート海士」が生まれ変わったところである。
島到着時、「小洒落た感じになっちゃって、もー!(笑)」などと思っていたが、"温故知新"よろしく、この島にしてなくてはならない唯一無二の存在となっていたことを元大賞さんの案内で思い知ることとなった。
まず、前回訪れた時に「自分の中での隠岐のイメージそのまま」と表現したマリンポート海士時代のロビーがそのまま残されていた。
なにより驚いたのが、今回案内された『Geo Room “Discover”』だ。"本物に触れるための予習の場"として、隠岐の成り立ちにはじまる歴史や文化をコンパクトに凝縮した空間が設けられている。
真骨頂なのは、展示されているオブジェの全てが無彩色であることだ。
ここには「これまでの歴史をあなたの目で見てあなたの感じた色で染めて欲しい」、そんな思いがこめられている。なんとも憎い演出!
尊成ちゃんカワ(・∀・)イイ!!
お向かい西ノ島に流された後醍醐帝も、めんこいの~めんこいの~(*´ω`)
さてここで朗報を一つ。こちらは時間的な制限はあるものの、Entôの宿泊客じゃなくても誰でも入場可能&無料とのこと。
これは声を大にして言いたい、
「海士町に着いたら観光協会とキンニャモニャセンター内の各店舗、そしてEntô『Geo Room “Discover”』へ立ち寄ることは義務である!」
海士町にお越しの際は、是非とも足を運ぶべきこと必須の場所であり、訪れて損はない! 私が保証する。・・・あ、後鳥羽院資料館もお忘れなく(;^_^A
一路Entôの裏へ。裏というか海岸線の奥へ。
そこにあったのは昨今流行りのグランピング施設。Entôと、岡部株式会社「応用藻類研究所」通称"海藻センター"の間にあるこの施設には、多くの観光客がタープやテントを張ってワイワイBBQなどを楽しんでいた。
その光景をば……とも思ったが、隠岐を訪れたことのある人なら分かることだろうが、街場で見かけるようなネオンはもちろん街頭なんかもほぼ皆無。そこがかえって良いところでもあるのだが、なにせある程度の光量がないとスマホはおろか一眼カメラでも写真は撮れない。ましてやフラッシュを焚くわけにもいかない。ということでしばらく写真画像はありませんm(_ _)m
グランピング施設の傍らには「レインボービーチ」と呼ばれる風光明媚な砂浜海岸がある。元大賞さんの話しによれば、人工ビーチだという。
元大賞さん「地元高校生のデートスポットだったりします(笑)」
港から一番近い海水浴場ということもあって、さもありなんという感じである。先述のとおりの理由から写真画像はないので『海士町 レインボービーチ』などで検索してほしい。
波打ち際でふと足元を見ると、何やら黒いものが大量に打ち寄せられていた。
元大賞さん「これは"モバ"といって、昔は本土なんかに運んで綿花の肥料に用いられてたんですよ」
曰く、お向かいの西ノ島に流された後醍醐天皇は、この海藻を運ぶ船に隠れて隠岐脱出をしたらしいとのこと。こうした伝承が聞けるのも、現地に来たからこその代物という感がある。
ここでふと元大賞さんの方に目をやると、先ほどのグランピング施設の方を眺めている。
元大賞さん「あのグランピングの建物、子どものころテレビでやってた『ド○ゴンボール』とかで観ませんでした?」
甚之助「まんま『ドラ○ンボール』に登場してましたね・・・(笑)」
世代が一緒だと必然的に話題にあがる例えも重なってきて、実に話しやすいものである。
そのあともノラリクラリとあちらこちらを逍遥しつつ菱浦の住宅街へ。
元大賞さん「そうそう、最近海士には画期的なものが出来まして・・・」
指さす方向には、煌々と光る何かがあった。
元大賞さん「夜中にジャンクなものが食べたくなったら、ここで補給できるようになったんですよ」
なんとそこにはハンバーガーの自動販売機があるではないか!
いつぞやの本家サイトの羅列記事でもピックアップした例のバーガー販売機である。これは確かに画期的だ(笑)
……私も北海道の山の中で生まれ育っているので、そもそも自動販売機というもの自体に何か特殊な、古い言い方だが"ハイカラ"なものを感じる。もちろん、幼少時にも地元にあるにはあったがその存在には特別なものがあった。そんなだからか、浪人時代の予備校の寮にあったカップラーメンの自動販売機をみて「近未来!」とか感じたりしていた。
ちなみに海士町のある中ノ島にはコンビニはない。お向かいの西ノ島には「デイリーヤ○ザキ」があるようだが、さすがに島前三島をむすぶ内航船が24時間あるワケもなく、「夜中にちょっと小腹が空いたので」とフラッと立ち寄るようなわけにはいかない。そこにおいてのバーガー販売機である! 「ないものはない!」がコンセプトの海士町だが、ある意味で物質的にも豊かなところだと感じざるを得なかった。
後鳥羽院の気配
翌朝。
私は毎日午前3時には起きているのだが、それは旅先でも変わらない。で、なにをやっていたかというと、本家サイトの更新やら〆切の立て込んだ原稿を書いていた。
甚之助「フィールドワークというか取材というか・・・離島に来てまで何やってんだろ」
と内心、自嘲気味にパソコンのキーボードを叩いていた。
午前5時。プラっと宿を出た。
ここで少し補足しておこう。
先述のとおり、今回のフィールドワークの目的は崎地区の「お腰掛けの石」だった。計画段階からこの目的は初日に果たすつもりだったので、2日目は午前のフェリーで島を離れとある場所へ向かうか午後の便まで島でボーっとするか、決めかねていた。むしろ当日決めようと、結論を持ち越していた。せっかく隠岐まで来たのだ、前回来訪時に最後に回った金光寺山の中腹でひたすら海を眺めるのもいいなぁなどと妄想したりしていた。
「賤の女がたてなし機をたておきて
またみるも海またみるも海」
私が好きな院の歌のひとつ。ぼんやりと、院の眺めた海を自分も耽溺してみるのも悪くない。
だがその一方、未だ沖縄周辺に居座る台風の影響で、場合によってはフェリー欠航という可能性もあった。実際問題、波高が5~6mにでもならないと欠航はしないようだが、自然相手だと何があるか分からない。それにとある場所への来訪計画も捨てきれなかった。
そんなこんなのことがあって、隠岐の後鳥羽院のメッカ・隠岐神社~火葬塚周辺には2日目早朝にお参りしておこうと考えていた。
前夜、そのことを元大賞さんに伝えると
元大賞さん「朝早くに自分も起きられればですけど、是非ご一緒したいです」
というなんともありがたいお言葉をもらっていた。今や隠岐の後鳥羽院については比類なき専門家に御同行いただけるのだ、これにもまして幸いなことはない。とはいえ無理強いも出来ないので
甚之助「(毎朝午前3時に起きている奇特な輩に)合わせずとも大丈夫ですよ~」
とだけは伝えていた。
早朝の海士町は、とにかく静寂そのものの街の雰囲気になんだか身が引き締まる思いがした。すれ違うクルマさえない。ただただ静かに波打つ海の音があるばかり。
若干の薄雲がひろがっていたが、まだ明けきらない朝焼け空には心地良いアクセントだ。
菱浦から隠岐神社のある海士町海士まではおよそ3km。ちょうど小学時分の私の通学路片道分である。日の出前から暑いには暑いが、顔面が凍傷になりかねないブリザード吹き荒れる中を歩いた距離と思えば苦はない。
そうこうしているうちに海士地区へ。
この少し前から元大賞さんとDMのやりとりをしていたが、隠岐神社まであと少しというところをクルマで駆けつけてくれた。
元大賞さん「乗ります?」
甚之助「あと数百mなので歩きます(笑)」
若干眠たげな声でのやりとり。早朝というのに駆けつけてくれたことには感謝しかない。
そして隠岐神社にて合流。
どうも「ごとばんさん」、ご無沙汰しております!
鳥居をくぐって参道をいく。
今回の隠岐来訪以前、今夏もたびたび日本を襲った集中豪雨は、ここ隠岐にも牙を向けた。
通行困難な状態ですね、明日の朝どうなっているのか…。 pic.twitter.com/i7BKu7AYAQ
— 隠岐とか後鳥羽院 (@welcomegotoba) July 8, 2023
豪雨の爪痕が参道にも残る。
こちらは社殿直前の石段付近。
数年前の集中豪雨の際にできた水跡を利用して、こんな感じに装飾されていた。
なんでも社殿の方から流れ出てきた水跡を川に模して、
「京でも川はいっぱい見ただろうし、後鳥羽院に懐かしんでもらおう」
と、排水溝までの水筋を川に見立てたらしい。なんとも粋な計らい!
また現在の隠岐神社の宮司さんの奥様などが、ときどき手水舎にこうして木々の葉や花々を浮かべているとのこと。これまた風流!
隠岐神社に参拝。
遷幸800年祭の残り香が随所に。どこかの御方が大好きだった諸々を集めてデザインされた手ぬぐい。800年祭の折にはほぼ全てについて行事があったとのこと。
例によって隠岐神社に隣接する御在所跡および火葬塚方面へ・・・。
元大賞さん「これは多分、前回来た時には整備されていなかったと思いますが……」
見ると、御在所跡へ至る道の右手側が、前回来たときと異なり、すっかり開けている。
聞けばJICAの事業(JICAグローバルプログラム)の一環で整備がされたらしく、その先にあったのは
「飛鳥井少将雅賢の墓」!
前回記事では結構ボロクソに書いてしまった人物だが、やっぱりもってかなりの遊び人だった故に隠岐配流となった人物であることは否めない。しっかしそのお墓もまたちゃんと現存するとは!
甚之助「相当な放蕩を尽くしていたらしい話しはよく耳にするけど、隠岐在島時代は私財を投じて後鳥羽院の御廟を整備をしたとか……」
元大賞さん「あ、実際は当時の松江のお殿様に『整備しましょうよー!』って提案した感じらしいです。あと、たしかお孫さんの代になってやっと許されて京に戻れたとか……」
なんとも、ここに来なければ聞けなかった史実! こうしたことを聞けただけでも凄まじい価値がある。
ちなみに飛鳥井少将の墓の隣りには、後鳥羽院の御在所であった源福寺の歴代住職の墓も並ぶ。またこの辺り一帯を手入れされているのは、配流後の後鳥羽院に仕え、代々その御霊を祀り、また現在はその家屋が『村上家資料館』として公開されている当代・村上助九郎さんだという。聞けばかなりユニークな方らしく、是非ともお会いしたかったが今回は早朝ということもあって断念せざるを得なかった。いつの日かお話しを聞きたいものだ。
これまた前回も紹介した「苅田の池の蛙」の逸話が残る池。
「蛙なく 苅田の池の夕たたみ
聞かましものは 松風の音」
この歌を詠んで以降、池の蛙は鳴くのをやめたという池だが、ここ数年は整備も出来ず水が濁ってしまっているらしい。近くにある明治以降ここを訪れた皇族が記念に植樹した松も、数年前に松くい虫が全国的に大量発生した折に枯れてしまったらしい。なんとも忌々しき事態。そういえば佐渡にも「順徳院 御腰掛けの松」というものがあるが、そちらの初代も松くい虫によって枯死伐採されていたなぁ。
そして真骨頂、火葬塚跡へ。
「みづまろくん」も来てますで。
火葬塚付近の石垣にはカニが!
これは「アカテガニ」と呼ばれる小さなカニで、少ない水でも生きることが可能で、また高いところに登る習性があることから海辺に近いところではよくその姿を目にする。
私自身もすっかり見落としていたし写真も撮り忘れてしまったが、福井地区にある福井小学校前には「アカテガニの道」「夏場 カニ横断中」の看板がある。
(撮影:元大賞さん。撮り忘れた私のためにわざわざ撮ってきてくださった。かたじけない・・・)
アカテガニは夏場、産卵のために海へ向かう過程でよく車道を横断する。しかし人間社会との共存のなか、無残にもクルマに轢かれてしまうカニも多くいるため、ドライバーたちへの注意喚起を込めて設置された看板だ。
「つなかけの松」跡にもご挨拶。二代目は血気盛んという感じだが、初代の切株もまた相変わらずの貫禄である。
火葬塚からの道中、アシビ(馬酔木・アセビ)の花が白く点々と咲き誇っていた。酷暑の夏のお盆間近、そこにはすでに果期を迎える秋への足音があったのかもしれない。
夕すゞみ あしの葉みだれ よる浪に
隠岐神社とその周辺へのあいさつ回りの帰路、元大賞さんが宿までクルマで送ってくれた。
元大賞さん「普段は農家という甚之助さんですし、せっかくなので隠岐の田んぼも見て行ってください」
そうして少し遠回りをして田園地帯を走ってくれた。
日本列島も南北にそれなりの長さはあるとはいえ、やはり米栽培にも適期はある。北の大地と西日本の離島の緯度・気候の差はあるにしても、その地域ごとの栽培技術というのは驚くもので、南北関わらず遜色ないその時期らしい稲穂に色づいていた。
元大賞さん「あの海岸沿いの葦とか見ると、きっと後鳥羽院もこういう風景見て和歌詠んでたりしたのかなぁって思いますよね……」
ふと車窓の外を見やると、道路と海辺の間に群生した葦が微かに風に揺れていた。
院が隠岐で編んだという『遠島御百首』。その32番歌に、
「夕すゞみあしの葉みだれよる浪に
ほたるかぞそふあまのいさり火」
という歌がある。
この歌が詠まれた場所をピンポイントで特定することなど、そもそも不可能なことだ。だが、そのとき院が眺めたであろう風景と限りなく近しい、いや限りなく同じ風景が、今でもこの島には残っている。
甚之助「やっぱりこの島が現場なんだ。院が暮らし、歌を詠んだ……」
ほんの先ごろ、隠岐神社拝殿でお参りをした折、冷泉家の方が歌会をされる際の様子などの話しを窺っている合間でふと、
元大賞さん「ごとばんさん・・・甚之助さんが会いに来てくれましたで」
と、呟くように言ってくれた。
これは前回も感じたことだし佐渡や阿波でもそうだったが、800余年の時間的隔たりはあれど、この隠岐・海士町に暮らす人々の中には今でも後鳥羽院が生き続けている。そして尊敬と敬慕の念をもって、今でもふれあい親しんでいる。それゆえに呟かれた言葉であり、その場で今現在暮らしている人だからこそ語れる言葉。ある種、そう語ることが許されるのは、ここ海士に暮らす人々の特権だろう。
元大賞さん「そうですよ、ここは後鳥羽院が暮らした島。そして今でも後鳥羽院が生きている島ですよ」
この言葉こそすべてだった。
現場を訪れ、その地の風景や空気、人々の生活に触れる、これこそフィールドワークの醍醐味。そして文献だけからでは見えてこない学べないことに接することができる。
今回の旅の目的は「お腰掛の石」だったが、こうして現場に来たなら、頭の中でアレコレ想い描いていたもの以上のものに出会い心揺さぶられる。頭で分かっていても、それはどこまでも「予期せぬ」出会いだ。
実際問題、この隠岐再訪を皮切りに佐渡・阿波への再訪を志しているが、その時「新たに」なにに出会えるか、楽しみで仕方ない。
なにより今回の最大の収穫は、私のなかで「後鳥羽院」という人物への印象がガラッと変わったことだろう。
繰り言になるが、貴種ゆかりの神社仏閣や史蹟を訪れた際、荒天であることは歓迎されている証という俗説がある。ママが初めて大原・水無瀬・隠岐を訪れた際、季節的なことも相俟ってか、どこに行っても荒天続きだったことは前回書いた。なによりママは、「後鳥羽院の隠岐遷幸800年記念大祭は、本来国家的一大行事として国を挙げて行わなければならないことのはず!」と喝破した御仁である。そんな人が会いに来たというなら、「殊勝じゃ」と言わんばかりに後鳥羽院もさぞ大喜びしたことだろう。
一方の私といえば、腐れ縁から藤原定家と永らく(一方的な脳内)乱闘を繰りひろげてきたし、ママの共犯者として後鳥羽院にはそれ相応の敬慕の念を抱いてきた。だが恥ずかしながら大歓迎されるほどの強い思い入れがあるわけでもなし、どちらかといえば「中世のジャイアン」後鳥羽院への興味ばかりが募っている物好きな人間にすぎない。
ただ、暑さにやられてフラフラの状態だったにもかかわらず、隠岐に着くと自然と身体が軽くなったのを感じた。暑いには暑かったのだが、薄雲の広がりがそれを救ってくれたというか、どこかで後鳥羽院が
「なんだ、今回はわれ一人か? 苦しゅうない、ゆっくりしていけよ・・・」
と、そっと私の頭上に薄雲をかけてくれたのではないか、そんな感覚にとらわれて仕方ない。
ふとそこに、「オレのものはオレのもの。それ以外のものもオレのもの」よろしく傍若無人のザ・自己中、余人を寄せ付けない豪胆な印象しかなかった後鳥羽院の意外な一面、すなわち帝王ゆえの慈悲心に満ちた懐の深さのようなものを感じざるを得なかった。私は今回の隠岐行の間、ずっと生身のままで院の深い懐に抱かれ続けていたような、心地良い安堵感に包まれている気がした。
そういえば、佐渡の山中でメガネをなくした時も、
「お~い三の君よ、かやつは去年、まろに会いに来てくれたんよ~」
と、本当に順徳院へ声をかけてくれていたのかもしれない。ま、あの時のことは今思い出しても冷や汗が出るのであまり思い出したくはないのだが(笑)
それともう一点、これは後日談なのだが、本稿の下書きを終え、登場場面に問題がないかあるいは私の認識違いがないか元大賞さんに原稿チェックをして貰った際、先の火葬塚から"つなかけの松"の部分で、私が「火葬塚からの道中、アシビの花が白く点々と咲き誇っていた」と書いた点について、
元大賞さん「アシビは今花期じゃないんですけど、多分わたしの大伯皇女の和歌の話しを聞いてくださっていたので、幻視できたんだと思います」
という指摘を受けた。
わたしは大伯皇女が好きなので、馬酔木(あしび)が咲きだすころになるといつも、
「磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」
の歌を思い出して、(なんで後鳥羽院はここにいないのかなぁ)と取り残されたような気持ちになります。
今年も馬酔木、咲きはじめました。 pic.twitter.com/q5dib6Hzgl— 隠岐とか後鳥羽院 (@welcomegotoba) February 24, 2021
つまり、アシビの花を見たというのは私の勘違い、あるいは幻だった? ……いや、たしかにあの道中で、私は白く色づく満開のアシビの花を見たと記憶している。その指摘を受けなんとも不思議な気持ちになっていると、
元大賞さん「あ! もしかしたら、院が見せてくださったのかもしれませんね」
と言ってくださり腑に落ちた。
そうか、後鳥羽院が見せてくれたのか!
「われ、せっかくだからアシビの花も見ていけよ。可愛いじゃろ?」
なんとなく、そんな声が聞こえてくるようだった。完全なる私の妄想かもしれないが、でもどこかで本当にそんな気がしてならない。それにあれだけの和歌を詠んだ偉大な歌人だ、アシビの花を見せてくれるなんてなんとも風流なことをしてくるものだとしみじみ感じ入る。
元大賞さん「でも、ジャイアンですよね(笑)」
甚之助「やっぱりジャイアンですね(笑)」
800余年の月日を経ても人々を惹きつけてやまない後鳥羽院。なんと魅力的な人なのだろう。
……と、今回の隠岐再訪レポートはここまで。そして、実はまだ続く。
左が元大賞さんの、右が私の。元大賞さんのは限定品とのこと。カワイイ(≧▽≦)
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隠岐絶景
《『【隠岐ふたたび…】RE:後鳥羽院を巡るフィールドワーク 後編へ》