後鳥羽院project

後鳥羽院『遠島御百首』私見その6~雑 三十首(下)~


(綱掛の松 隠岐・海士町 2018年08月甚之助撮影)
 
 
その1~春 二十首~
その2~夏 十五首~
その3~秋 二十首~
その4~冬 十五首~
その5~雑 三十首(上)~
・その6~雑 三十首(下)~
 
 
 

雑三十首(下) 目次

     八十六、日にそひて
     八十七、何となく
     八十八、人ごゝろ
     八十九、みほのうらの
     九十、たとふべき
     九十一、はれやらぬ
     九十二、うしとだに
     九十三、ことづてむ
     九十四、とにかくに
     九十五、ふるさとの
     九十六、おもふ人
     九十七、われこそは
     九十八、おなじ世に
     九十九、なびかずば
     百、かぎりあれば
     
     参考文献

 
 
 
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 後鳥羽院 (コレクション日本歌人選)

 
 
 

八十六、
日にそひてしげるぞまさる青つゞら
 くる人なしのまきの板戸に

≪訳≫日ごとに青葛が勢いよく茂ってくる。訪ねてくる人もいない槇の板戸に。

 『注釈』によると「青つゞら」は山野の蔓草のことで、蔓を繰るから同音「来る」の枕詞として使わるとのこと。二句切れ三句切れとすることで、「青つゞら」が上句の主語と下句の枕詞となっている。繁茂した蔓草が、来客もなく閉ざされたままの板戸にまで生え茂っている様子に孤独な院の生活ぶりが窺える。そしてその有様を外から眺めているであろう視点は、どこか冷めきっているようにも感じる。見事な二項対立の描き方だと思う。
 
 
 

八十七、
何となくむかしがたりに袖ぬれて
 ひとりぬる夜もつらきかね哉

≪訳≫昔語りに自然と涙があふれ袖が濡れてしまった。独り眠の夜明けに聞く鐘の音も辛い。

 この歌も恋歌の体裁を借りてきていて、院らしい趣向がみえる。「何となく」はじまった思い出語りだが、京のそれを思い出すにつけて誘われてくる涙。独り寝で辛く聞かれる暁の鐘は、愛しい恋人との別れではなく、懐旧の思いに辛さを感じる音を響かせている。絶望あるいは虚しさといった感慨がより深く感じられる。
 
 
 

八十八、
人ごゝろうしともいはじむかしより
 くるまをくだくみちにたとへき

≪訳≫人の心は憂き悲しいものと今更言うまい。車を摧く例えて、移り変わりやすいものなのだ。

 「くるまをくだく(車を摧く)」は白居易「太行路」の詩句からの引用とのことで、意としては「太行という険しい山道よりも人の心の移ろいやすさはひどいものだ」という。それを踏まえて、いまさら嘆いても仕方ないという諦観に達した院の心境が見いだせる。
 
 
 

八十九、
みほのうらの月とゝもにやいでぬらむ
 をきのとやまにふくるかりがね

≪訳≫美保の浦を月と共に飛び立ってきたのだろうか。夜更けの隠岐の外山で鳴いている雁は。

 「みほのうら」はご存知、院が隠岐に渡る際に船に乗った美保の関のこと。『吾妻鏡』や『承久記』では「大湊」あるいは「大濱浦」「大浦」と記されている。寝付けぬ夜を過ごし、明け方聞いた一羽の雁の鳴き声。そこに隠岐と美保の浦の距離感を投影し、月が出た頃に美保を出発して今頃隠岐に着いたのだろうかと、そんな想像を巡らせている視点の大きな歌となっている。三句切れ体言止めで新古今風ではあるけれど、どことなく寂寥とした感じが漂っているところに、院の孤独感がしみじみと感じられる。眠れぬ夜の長さ、その苦しさがにじみ出ている。
 
 
 

九十、
たとふべきむろのやしまも遠ければ
 おもひのけぶりいかゞまがへむ

≪訳≫例えるべき室の八島の煙立つ風景もここからは遠い。私の憂い思いの煙をどう紛らわそうか。

 「むろのやしま(室の八島)」は下野国の名所で、池から立つ水気が煙のように見えることから古くより歌枕として、特に恋歌に多く使われてきたという。その室の八島をたとえに、自分の憂悶の心情を詠もうと思っても、隠岐からは遠い。そこでこの思いをなにに例えればよいかと嘆いている。手慣れた感じで恋歌の体裁を借りながら、素直な心情を詠み込んでくるあたりはさすがといえる。院の風雅をそこに見るようだ。
 
 
 

九十一、
はれやらぬ身のうきぐもをいとふまに
 わがよの月のかげやふけぬる

≪訳≫浮雲が晴れやらぬように、晴れることのない憂いの我が身を厭っているうちにすっかり月日が経ってしまったことだ。

 『注釈』ではこの歌の段で『遠島御百首』の成立についての考察がなされている。著者はその最終的成立を断定できないとしながらも、『百首』が来島後早い時期に著され、この歌は晩年近いころに詠まれ差し込まれたのではと推察している。たしかに『百首』の多くの歌が現実的であり激情的であり、その感情の振れ幅の大きさを考えれば妥当だろう。一方でこの歌のように諦観というか、人生を達観したかのような御製は、『無常講式』などに見られるような院の無常観とも通底するものを感じる(『無常講式』成立時期についても諸説あるが、ここでは院晩年の成立と考える)。
 いつだったかママが「院の人生をグラフで示したら、富士山のような美しい山の稜線を描く」と感動しながら言っていたことがあった。華麗にして荘厳、その人生の終わりに院の瞳には何が映っていたのだろうか?
 
 
 

九十二、
うしとだにいは浪たかきよしのがは
 よしや世中おもひすてゝき

≪訳≫憂しとだけでも言いたいが、今は声高に言うことはやめよう。こんな世の中、思い捨ててしまったのだから。

 これもまた諦観を歌った一首だが、吉野川の激流を描く中に鬱積した心情を映しとる詠風はさすがといえる。「いは浪たかき」に「言わ無み」「声高き」、「よしのがは」の響きに「よしや」と続け、初句での「うしとだに」という言い放ち、どれをとっても言葉と音の持つ豊かさがイメージを広げてくれる。
 本歌は『古今集』巻十五恋歌五、読み人しらず「流れてはいもせの山の中に落つる吉野の川のよしや世の中」(828)、同巻十一恋歌一、紀貫之「吉野川いはなみたかくゆく水の早くぞ人を思ひそめてし」(471)とのこと。
 
 
 

九十三、
ことづてむみやこまでもしさそはれば
 あなしのかぜにまがふむらくも

≪訳≫もし都まで吹くなれば私の思いを言づてたいものだ。西北の風に流れる乱れる村雲に。

 「あなしのかぜ」は西北に吹く風のことで、隠岐から京へと吹く風に流れる雲へ思いを馳せる姿がなんとも痛々しい。「みやこ」とはっきり詠んでいることも相俟って、その心境が生々しいほどに伝わってくる。隠岐配流後の御製で、「賤の女がたてなし機をたておきてまたみるも海またみるも海」という歌が個人的に一番好きなのだが、これとどうにも対になっているような印象を受ける。「賤の女が」の歌は、風光明媚で知られる金光寺山へあそんだ折の御製と伝えられているが、院がそこから臨んだものは果てしない大海原と、蒼穹にたなびく雲だったのではないか、これら二首を読むにつけてそんな想像を強くする。
  
 
 

九十四、
とにかくに人のこゝろもみえはてぬ
 うきやのもりのかゞみなるらん

≪訳≫とにかく、憂い我が身には人心も見え果ててしまった。ともすれば、憂きとはまさしく人の心を映す鏡なのであろうか。

 この歌を読むにつけて、私淑する芥川龍之介の佳作『杜子春』を思い出さずにいられない。昨今のネットスラングでいうところの「手の平クル―」に対する院の嘆きといおうか……。かつての「治天の君」は、今や罪人として流罪の身。その落差は、市井の人の感じるそれとは比較にならないであろう。「みえはて(見え果て)」るとは、如何ばかりの心境か? しかし裏切る人もあれば、隠岐にあっても変わらず信奉たてまつる人もある。先の93番歌にも通づるが、家隆は京より院を思い「詠むらむ都の境みゆばかり雲吹きはらへ西の山かぜ」(壬二集)と読んでいる。また定家も、承久の乱直前に院勘蟄居を蒙って訣別したかに見え、「日来指して祈請する旨有り。今生に相侍つ事(貴人の御事なり)、存命の間、遂に見奉るべからざれば、速く其の告げを蒙り、早く素懐を遂げん」(『明月記』安貞元年十月二十一日条)と記していたりする。ここでいう「貴人」にも諸説あるが、前後の文脈から後鳥羽院を指していると考えられている(cf,『明月記研究』13号:田淵句美子「承久の乱後の定家と後鳥羽院 追考」)。直接の便りがあればいざ知らず、果たしてこうした思いは院のもとにまでも届いていたのだろうか?

 
 
 

九十五、
ふるさとのこけのいはゝしいかならむ
 をのれあれてもこひわたるかな

≪訳≫人も通わなくなって苔むした古里の石橋はどうなっているだろうか。どんなに荒れ果てても私は今も恋しく偲んでいることだ。

 望郷の念というのは、誰しもの心の奥底にあるもの。院にとっての「ふるさと」はもちろん京であり、「いはゝし(石橋)」は御所の庭にかかる橋だろうか? 四句目の「をのれ」はここでは「自ずと」「自然に」という意味だが、あえて「己」と読んでみると、院自身の心が憂いと諦念に荒び果てても懐かしく思い焦がれる姿が際立つようにも思える。
 
 
 

九十六、
おもふ人さてもこゝろやなぐさむと
 みやこどりだにあらばとはまし

≪訳≫都に残してきた私の思い人は、心安らかに日々過ごしているであろうか。都鳥さえいれば訪ねてみようものを。

 京に残してきた寵臣たちの身を案ずる御製だが、少しひっかかりを覚える。もちろん深読みなどせず素直に受け取るべきなのだろうけれど。というのも、二句「さても」が問題なのだ。ここでは副詞的な意味合いでとらえる語句だが、すなわち「そうであっても」「そういう状態でも」「そのままで」などと現代語訳しうる。では「そう」とはどういう状況下と考えれば、院の不在の京、その状況である。「自分(院)がいないのに平穏無事でいるだろうか」という意味の中に、院の逆説的な反感を覚えてならない。つまり、「オレがこんな状況なのに、お前らのほほ~んと暮らしてんの? へー(棒読み」そんな声が聞こえてきそうでならないのだ。……いやしかし、次の97番歌はじめ、院の性格を今に伝える和歌や逸話は豊富であるが、さすがにこれは深読みが過ぎるだろうか?
 
 
 

九十七、
われこそはにゐじま守よ隠岐の海よ
 あらきなみかぜ心してふけ

≪訳≫私こそこの島の新しい島守である。隠岐の荒い波風よ、十分に気を配って吹けよ。

 後鳥羽院の人となりを今に伝えるあまりにも有名な一首。私が院のことを「日本中世史のジャイアン」と言い切るのは、この御製をもってしての所以である。またこの歌に関しては、古来より強気な命令調のものか弱気な哀願のものか、解釈の議論が分かれていることも有名だが、個人的には正直どちらでもよいかなという気がしている。文面からにじみ出る半ば自虐的なアイロニー、そこさえ汲み取れればこの一首をして院の心持に通じるような気がするのだ。三句が字余りなところには、荒き波風のうねりのようなものさえ感じる。
 さて、79番歌で続群書類従の古注に家隆が隠岐に渡ったという逸話があると書いたが、それには続きがある。隠岐から家隆が帰京しようとした折、海風が吹いて帰るに帰れなくなっていた。そこで、「(院は)我こそは新しま守となりて有共。なと科なき家隆を波風心して都へこへされぬとあそはしける。されは俄に風しつまりて家隆卿都へ歸られしと」なったという。なんとも院らしい話題である。
 
 
 

九十八、
おなじ世にまたすみの江の月やみむ
 けふこそよそのをきのしまもり

≪訳≫同じこの世でまた住吉の澄んだ月を見ることがあるだろうか。今でこそ遠い隠岐の島守である私だが。

 「すみの江」の「すみ」は住吉の「すみ」であり月が「澄む」であるが、「よそのをきのしまもり」と対比させると「(世に)住む」と「(世・京に対する)余所」というイメージが自ずと湧いてくる。上句で再び住吉の月を眺めたいと念願しながら、下句ではそう願わずにはいられないほどの悲惨な状況という、対比的な構図と相俟って、院自身が本当に遠くに追いやられてしまったと痛感している姿が痛々しいほど伝わってくる。この歌は先の97番歌と「しまもり」の語をもって対として鑑賞されるが、先の歌は「荒き波風」でこの歌は「(澄み渡った)月」と対照的な情景を詠んでいるあたりをみても、院の詠歌の巧みさが窺える。
 
 
 

九十九、
なびかずばまたもや神にたのぶべき
 おもへばかなしわかのうらなみ

≪訳≫神の心にそぐわずに再び神を頼れるだろうか。思ってみれば悲しい和歌の道であるよ。

 この歌は、院らしいものの見方が強く反映されているように感じる。和歌の道に精進し、和歌の神(住吉の神)の心にそぐう和歌をもってして、自らの帰京の願を頼む。だが、その兆しもない、和歌をもってもその願が聞き入れられないというなら、和歌を詠んでも悲しみを増幅させるだけという意である。和歌をもって神に願う礼は古来より受け継がれた伝統であり、諸芸に長け有識故実を尊んだ院ならばそこにかける思いも一入だろう。だからこそこの歌にかけた思いはあまりに痛切で悲痛極まりない。院が信じてきたもの、それは人であり皇統であり、また諸芸・有識故実、そして神である。この裏の陰に、それらすべてにも裏切られてしまったのではないかという、院のつかみどころのない不安感さえ感じ取れるような気がする。
 
 
 

一〇〇、
かぎりあればかやはのきばの月もみつ
 しらぬは人のゆくすゑのそら

≪訳≫人の命にも限りがあるが、今生きながらえて粗末な萱の住まいの軒端に月を見ることになった。人の行く末とは分からないものだ。

 『遠島御百首』を締めくくる100番歌、ここにはこれまでの歌には見られないような悟りとも思える静寂な調べが窺える。この歌に似たもので、『承久記』には修明門院に送ったものと伝わる「限りあればさても堪へける身のうさよ民のわら屋に軒をならべて」があるが、両歌の違いは明瞭だ。この100番歌にはこれまでの憎悪や悲哀、嘆息や諦念といった心境の吐露がない。ただただ「かぎり」ある、常無い人生への深い感慨ばかりがにじみ出ている。下句「しらぬは人のゆくすゑのそら」という体言止めでの切り方には、この世の真理の一切を受け入れたような潔さがある。
 太宰治の代表作『人間失格』、その最終盤に出てくる「ただ一切は過ぎていきます」という言葉がふと思い起こされた。無常なるかな。……
 
 
 

(金光寺山からの眺望 隠岐・海士町 2018年08月甚之助撮影)
 
 
 

主な参考文献

・小原幹雄『遠島御百首注釈』隠岐神社奉賛会,1983
・田邑二枝『隠岐の後鳥羽院』後鳥羽院顕彰事業実行委員会,2010
・田村柳壹『後鳥羽院とその周辺』笠間書院,1998
・寺島恒世『後鳥羽院和歌論』笠間書院,2015
・野朋美『後鳥羽院とその時代』笠間書院,2015
・寺島恒世「『遠島百首』の一伝本」東京医科歯科大学教養部研究紀要 第三十八号,2008
・齋藤彰「昭和女子大学図書館蔵『隠岐百首』-解題・影印・翻刻-」学苑 第八八九号,2014 
 などなど・・・
  
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≪後鳥羽院『遠島御百首』私見≫おわり

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