後鳥羽院project

【隠岐ふたたび…】RE:後鳥羽院を巡るフィールドワーク~後編~

2024年01月07日


 
 
 

前回のあらすじ
 コロナ禍を経て念願の隠岐再訪を目指したワタクシ甚之助は、酷暑の中を必死の思いで隠岐・海士町に降り立った。
 そして遂に、前回目の当たりにすることのできなかった後鳥羽院「お腰掛けの石」と対面する。
 次いで、SNS上では長らく付き合いのある通称・元大賞さんと邂逅し、ふたたび隠岐神社・御在所&火葬塚跡へと足を踏み入れた。そこで目にしたものは「ひと夏の幻」だった……。

 

目次

    ・पुनर्मिलाम ओकि・・・
    ・キーポイント美保関
    ・それからのこと

 

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पुनर्मिलाम ओकि・・・

 
 पुनर्मिलाम ओकि・・・(punarmilāma oki /)
 
 私の本来の専門分野であるインド哲学仏教学、そこで最頻出のサンスクリット語(梵語)で「また会う日まで、隠岐」と書いてみた。本文の内容とは関係ない。ただの自己満足である。
 それはさておき、早朝の隠岐神社・火葬塚への巡礼を終えた私は宿に戻って朝食をとっていた。宿の方には事前に「早朝の便で本土に戻ろうかなぁ……」と伝えてあったこともあってか、
宿の方「どうやらそこまで波も高くならないようなので、フェリーは通常通り出るようですよ~」
 と声をかけてくれた。
 前稿でも書いたが、二日目はどこを訪れるでもなく、後鳥羽院もたびたび遊んだという金峰山にでも行ってボーっと海を眺めようかとも思っていた。だが、せっかく山陰にまで来たのだ、一連の後鳥羽院がらみの史蹟をできれば巡りたい気持ちもあった。
 できるものは出来るうちにやっておきたい、いまこの瞬間は今ここにしかない。私は多少後ろ髪が引かれる思いがありつつも、午前の便で隠岐を離れることにした。

元大賞さん「あ、じゃあお見送りに行きます!」
 
 !?
 離島に住む友人知人は全国各地チラホラいるが、こういう申し出は初めてだった。
 そういえば、元大賞さんはフォロワーさんが離島される際、必ずと言っていいほどお見送りされておりその様子をポスト(ツイート)している。
 
 
 

 出航までしばらくぼんやり。
 
 
 
 今回は前回よりもワタワタな隠岐来訪だったので、ゆっくり潮風に当たる余裕がなかった。
 今度来るときは絶対ゆっくり数日かけて滞在しようと心に決めた。
 
 と、そうこうしている間に元大賞さんが駆けつけてくれた。
元大賞さん「今日は紙テープでのお見送りがあるようですよ」
 !!
 なんと! かねがね噂には聞いていた紙テープでのお見送り。前回時も岸辺から見かけたが、まさか自分が乗る船で目撃できるとは!
 
 
 

 キレイだなぁ。
 
 
 

 なるほど、上からはこんな感じで見えるのかぁ。今度は自分もやってみたい(笑)
 
 
 

 とか思っているうちに、無情にもフェリーは海士町菱浦の港から遠ざかっていく。。。
 
 
 

 このとき、何故か物凄く寂しい気持ちになってしまった。だからしばらくは甲板にいて、薄くなっていく島影を眺めていた。
 
 
 
 午前の早い便ということもあってか、昨日と打って変わって船内は結構ガランとしていた。なのでゆっくりイス席に座ることができたのだが、そこでおもむろに、今朝がた元大賞さんから頂いたとあるものを読むことに。
 
 
 
 それはこちら

 『おきのすさび』
 
 
  
 昨夜、Entoの『Geo Room “Discover”』を訪れ話し込んでいた折、この『おきのすさび』の話題が出た。元大賞さん曰くとても興味深い史料とのことだったが、口頭で題名を聞いただけだったので私の認識は「はて? 聞いたことあるようなないような・・・。そんな史料あったかなぁ」という程度だった(後日、自宅に戻って史料をひっくり返しみると、案の定、同史料を参照する論文数本が出てきたw 人間の記憶力なんてこんなもんだなぁ)。
 
 さて件の『おきのすさび』だが、江戸中期の神官・日置風水(肥富)が後鳥羽院火葬塚を目指し隠岐に渡った際の紀行文だ。隠岐各地に残る伝承を多く聞き書きしており、当時の島の伝承を知るうえで貴重な史料となっている。
 でもっていざ読んでみると、まぁなんとオモシロイことでしょう~!
 二十数ページほどの代物だが、江戸期の古文とはいえ実に読みやすい。しかも風水自身和歌に堪能だったらしく、院の歌のほか自作の歌句なんかも掲げているのが興味深い。
 一気に読み通して一言、
 「このままUターンして隠岐に戻りたい・・・( ノД`)」
 
 
 

 ・・・でも、だんだんと本土は近づいてくるわけで。
 
 
 

 美保関灯台が見えてきた。
 
 
 
 そう、次なる目的地それは・・・
 

 ここ、美保関である!
 
 
 

 今から行きまっせ~!
 
 
 

キーポイント美保関

 

 ということで境港に到着。
 近場は結構かすめるけど、境港単発で来たのは10数年ぶり。
 
 
 
 さてここから美保関を目指すのだが、多くの観光客はタクシーで向かうらしい。
 でも私はローカルの巡回バスを乗り継ぎ美保関へ。バスでも鉄道でも、ローカル線に揺られるのが好きな質でして。
 とはいえこういう地方都市の巡回バスって、ジャンボタクシーをちょっと大きくしたような乗り合いタクシーみたいなバスなんだよなぁ。
 自分以外の乗客は地元のお婆様一人だったけど、そこへトランク抱えて乗り込むのは少し気が引けた(笑)
 
 
 
 で、そのお婆様とアレコレお話ししているうちに

 はい、着きました「美保関」!
 
 
 

 
 
 
 『吾妻鏡』では

「上皇出雲國大濱湊に著御、此所より御船に遷座」(承久3年8月27日条)

 
 『承久記』慈光寺本では

「計にぞ出雲國の大濱浦に著せ給ふ。風を待て隠岐國へぞ著まいらする」

 などと記されている後鳥羽院ゆかりの地。
 
 
 

 まずは有名な青石畳通りをスルーして、こちら
 
 
 

 佛国寺(仏国寺)
 
 
 
 後鳥羽院、そして後代に隠岐・西ノ島に流された後醍醐帝が出発するまで行在所していたという寺院。1200年前に創建されたという古刹だ。
 
 江戸中期に編纂された出雲の地誌『雲陽誌』では

「佛谷寺 浄土宗龍海山と云、《中略》後鳥羽院、隠岐の國へ遷幸の時、暫く寺中に皇居を定められたりとかや、此事は今に古老は聞き傳て知たる人もあり」

 と記されている。院が隠岐に渡る際、風待ちをしたという記載をする史料は多いが、異同も多い。一説には承久3年の7月25日から8月3日の9日間とされている。
 
 ちなみにこちらの佛国寺、同じく『雲陽誌』では

「此寺家に古三明院といふありけり、所の者とも是を伽藍といひつたへり」

 と記されており、元は「三明院」というお寺だったらしい。
 
 
 

 みづまろくん、来ましたで!
 
 
 

 山門脇には「後鳥羽上皇 後醍醐上皇 行在所」の碑がある。これは昭和8年に澄宮殿下(のちの三笠宮崇仁親王)が行啓した際の記念だという。
 
 
 

 山門を入ると左手側に本堂がある。
 本堂の中には院が隠岐へ船で渡った際の絵が飾られている。
 
 
 

 波が荒い!
 
 
  
 ちなみに山門を入って右手側には「大日堂」という御堂があり、五体の仏像(重要文化財)が安置されている。
 それと、帰りがけに気づいたのだが、山門入ってすぐのところには「八百屋お七」の恋人として有名な「吉三」の墓および地蔵が安置されていた。
 

 なんでもお七を弔い巡礼に訪れた際、吉三はこの地で亡くなったらしい。
 そういえば、私が東京在の頃住んでいたところには吉祥寺というお寺があるが、そこには「お七と吉三の比翼塚」がある。また近所の円乗寺というお寺には「お七の墓」も存在している。図らずも、なんだか奇妙なご縁を感じてならない。
 
 
 
 では一路、有名な「青石畳通り」を行く。
 
 
 
 
 途中にある「美保館」本館は明治38(1905)年に建てられた老舗旅館で、2004年には国の登録有形文化財に指定されている。

 現在でも朝食や宴会・披露宴の会場として利用されているというから驚きだ!
 
 
 
 美保関資料館にも立ち寄ってみる。

 古代より海上交通の要所「風待ちの港」として、また北前船による交易の要所として栄えた美保関の歴史がコンパクトにまとめられたこちらの資料館は、美保関の豪商・鷦鷯(ささき)家に伝わる貴重な資料が展示されている。中でも当時実際に使われていたという「ニ千両箱」には圧巻の一言!
 ちなみに入口付近には昭和2年(13年にも)同地を訪れた徳富蘇峰の揮毫が石碑として建っている。この美保関にはほかにも多くの文化人が訪れている。
 
 
 
 

 さて、そんなこんなで青石畳通りを経てたどり着いた先は
 
 
 

 美保関のメッカ美保神社
 この美穂神社は恵比寿様こと事代主神の総本宮だ。8世紀編纂の『出雲風土記』にもすでに記されている古社で、出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」とも呼ばれている。
 
 
 

 二の鳥居前にて。さあみづまろくん、お参りしましょう!
 
 
 

 神門前にて。荘厳というか、威風堂々とした佇まいで圧倒される。
 
 
 

 本殿・拝殿は出雲大社に代表される「大社造」。そしてこちらには先述の事代主神のほか、三穂津姫命も祀られている。
 
 写真右手、拝殿の屋根の上に突き抜けて見える屋根が左殿「大御前(おおごぜん)」でこちらに三穂津姫命が祀られ、写真には写っていないが大御前と対をなす形で右殿「二御前(にのごぜん)」がありそこに事代主神が祀られている。この特殊な形式から「比翼大社造」あるいは「美保造」などとも呼ばれている。
 ちなみに三穂津姫命は事代主神の父・大国主神の后神で、義理の母にあたる(事代主神の母は神屋楯比売神)。
 三穂津姫の父は高皇産霊尊で、『日本書紀』では

時に高皇産霊尊、大物主神(大国主神の別名)に勅すらく「いまし若し國津神を以て妻とせば、吾なほ汝を疎き心有りとおもはむ。故、今吾が女三穂津姫を以て、何時に配せて妻とせむ。八十萬神を領ゐて、永に皇孫の爲に護り奉れ」(『日本書紀』巻第二「神代下」第九段一書第二)

 と記されている。
 国譲り後、幽界へ隠れた大国主神に自分の娘を娶るよう求めた場面である。ここ美保関の「美保」という地名もまた、この三穂津姫命にご縁があるという(『出雲風土記』島根郡「美保の郷」条では、大国主神の子・御穂須須美命が鎮座しているので美保とよばれているとしている)。
 
 
 
 とまあ終始圧倒されっぱなしの美保神社参拝だった。とにかく荘厳・厳粛・威容、出雲大社とはまた違った威風を感じた。それはどこか、恵比寿様のどっしりと構えた姿のイメージそのもので、そこに後鳥羽院や後醍醐帝の姿も重なって見えるようだった。
 ・・・と同時に今回のフィールドワーク中、最高の蒸し暑さも感じた(笑)
 
 
 


 前掲の二の鳥居の袂に小さな休憩所があったので一休みすることに。もぬけの殻状態になってボーっとしていると、ふとあるものが展示されていることに気づいた。
 
 
 

 初代「関の五本マツ」の原木! 民謡『関の五本松』で有名なあのマツの現物である。
 
 かつて美保関の山肌に生育し、船人たちの航路目標として親しまれていたマツだが、早くに一本が倒木・枯死あるいは通行の妨げになるとして領主によって伐採されたともいわれている。昭和18(1943)年に国の天然記念物に指定されるものの戦後に倒伏が相次ぎ、昭和46(1971)年に最後の一本を残して指定は解除された。その最期の一本も危険防止の観点から平成12(2000)年に伐採された。原木は他にも近くの五本松公園内で展示されている。
 「そういえば、関の五本マツについては小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も『日本瞥見記』の中で記していたなぁ。来る前に再読しておけばよかった」
 などとぼんやり思ってしまった(ちなみに『日本瞥見記』の別訳『新編 日本の面影』も刊行されているが、そちらでは紙面の都合で関の五本マツへ言及している部分がバッサリ割愛されている。残念)。
 
 


 
 今回のフィールドワークの締めくくりを美保関にしたのは、結果的に正解だったかもしれない。もちろん隠岐でぼんやりコースもアリだったが、短い時間ながら、隠岐渡御直前に院が過ごした空間を800年の時を経て堪能できたことに深く感動した。

しるらめや浮身を埼の濱千鳥
 泣く泣くしぼる袖のけしきを

たらちめの消えやらでまつ露の身を
 風より先にいかでとはまし

 この二首は美保関で院が詠んだとされ、「しるらめや~」は寵妃・修明門院へ、「たらちめの~」は母・七条院へそれぞれ贈っている(『承久記』古活字本では「たらちめの~」は隠岐で詠進したとしている)。
 

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新編 日本の面影
新編 日本の面影 (2)
 
 
 

それからのこと

 相変わらずワタワタの日々を過ごし、夏の記事を今になって(2023年12月末)ドタバタと書き進めたわけだが、今回の隠岐・美保関行の最後に、『後鳥羽院Project』の今後を左右しかねない出来事があったことを報告しておきたい。
 秋真っ盛りのある日、元嫁さんから一本の電話があった。
 
元嫁「なんかね、ママ、もうダメみたいよ・・・」
 
 聞けば、高齢の身の上とここ数年のうちに遭遇したハプニングとが相俟って、旅路はおろか日常生活を送るのにも支障をきたすほど身体が弱ってしまっているらしい。

元嫁「それで、ママが持ってる後鳥羽院がらみの資料一式を先生に引き継いでほしんだって」
 
 正直絶句してしまった。
 資料の引継ぎそれ自体は吝かではないのだが、一連の後鳥羽院がらみに私を引き込んだ張本人であるママが、まさかこの段において戦線離脱しようとしているのだろうか? そんな不安が頭をよぎった。
 「来るべき時が来たのかもしれない・・・」
 多分、ママは足腰立たなくなってもカクシャクとして相変わらず毒舌を吐き続けるだろうから、その点あまり心配はしていないけれど、やはり後鳥羽院関連のことでママの助力を得られなくなるのはかなり痛い。なにせ勉強量と情熱が自分とは桁違いの御仁だ。
 加えて、ここ最近は音信不通の状態である。これは自分たちママ周辺の人間からすると「まあママだし・・・(笑)」という話しで、さして心配もしていない点だったりするが、実際問題、当の本人の口から事の詳細を受けていないのだから何も言えないというのが現況だったりする。
 
 そんなこんなのことがある最中、私は唐突にとあるところへと降り立った。これはまったく予定していなかったのだけれど、急遽呼ばれたような気がしてならずいてもたってもいられなくなって赴いたに近い。
 そしてそこでふと安心できる要素を確信するに至る・・・のだが、それはまた別の記事で。
 
 冒頭かなり仰々しく書いたが、この一連のお話しはそんなにシリアスなものではないことは付け加えておこう。
  


 
 
《【隠岐ふたたび…】RE:後鳥羽院を巡るフィールドワーク~後編~ おわり》
 
 

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