佐渡の入江の順徳院 前編~後鳥羽院をめぐるフィールドワークその2~

 
  

 Field work on JUNTOKU Tenno[22,Oct,1197~7,Oct,1242(10,Sep,Kenkyu8~12,Sep,Ninji3):84nd emperor(reigning:1210~1221)and Retired Emperor].
 He is a scholarship and the martial arts who resembles his father.
 However, he was condemned to SADO due to the turbulence of Jōkyū war.
 This is a report that traveled the land on him.
 
 
 
 パパ・後鳥羽院譲りの文武両道の逸材
 
 
 

目次

     プロローグ
     黒木御所跡
     恋ヶ浦
     真野宮
     真野御陵(火葬塚)
     国分寺跡とエピローグ

 
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完全図解でよくわかる 承久の乱

歴史REAL承久の乱

 
 
 

プロローグ

 さて、昨年夏に島根県は隠岐諸島まで『後鳥羽院を巡るフィールドワーク【大原御陵・水無瀬神宮・隠岐】』と称し、承久の乱に伴い流罪となった後鳥羽院についてのフィールドワークを行なったけれど、その帰り際、共同研究者というか、後鳥羽院単推しの旧知の年の離れた友人、私を後鳥羽院研究に巻き込んだ張本人である通称・ママに一言こう言われた。
 「今度は佐渡ね。佐渡行きましょう。息子の順徳院の跡も見ておかないと……」
 ええ、私は後鳥羽院に関わる事柄についてはママと心中しますとも。

 ということで今回、新潟県は佐渡市(佐渡島)まで行って順徳院にまつわる史跡のフィールドワークを行ってきました。

 最近ママは「昨今の天変地異やら異常気象やらは、どう考えても後鳥羽院が自身の800回忌(2041年)、承久の乱勃発800年(2021年)を前にして、怨霊よろしく喜び勇んで起こしているとしか思えない」という事によっては不謹慎極まりない妄想を逞しくしているらしく、昨年の隠岐巡礼の報告方々、順徳院の流された地を訪れるに当たり今回は如何様なことになるかと思っていたら、案の定の台風直撃w
 俗説だが、歴史的な人物にまつわる史跡や神社仏閣などを訪れる際に極端な天気に合うことは歓迎の証と言われているが、なにも当該の現地に向かうのに二年連続で台風直撃させることもなかろうと、若干後鳥羽院に恨み節を言いたくなった。
 
 とはいえ台風は早々と抜けてくれたので、翌日からは一気に好天となってくれた。ええ、好天も荒天、安定の酷暑ですw

 
 新潟駅前から佐渡汽船のフェリー乗り場のある新潟港まで移動。すでに蒸し暑すぎてクーラーの効いた待合室にほぼ引きこもる。

 とはいえちょっと気になったのでこんなところに寄る。
 
 江戸末期、日米修好通商条約締結により開港されることとなった新潟港だが、もともと地形的に河口港だったこともあり信濃川上流から流れ込む流砂のために水深が浅く、大型船舶の入港には適さなかった。明治後期になって近代港湾としての整備が始まり、埠頭の修築や治水対策・埋め立てなどのさまざまな工事を経て国の重要港湾の指定を受けるまでに至ったのだが、その歴史を模型や図説を所狭しと配して紹介しているのがこちらの資料室。一応開放されているけれど、念のため中の写真は撮らなかった。港がだんだんと大きくなっていく姿が分かってとても興味深かったが、ペラ紙一枚でもいいからレジュメというかパンフレットのようなものが欲しかったな。

 
 今回は高速フェリー(ジェットフォイル)に乗船。佐渡の玄関口・両津港までおよそ1時間。
 で、乗船して驚いたのだが港内の水の色が一様に茶色い。河川からの水の流入ゆえなのか、それとも前日までの台風の影響なのか、いずれにしても海底がそんなに深くないということがうかがえる。

 
 ここで更に驚くのが、港湾内外で全然海の色が違うということ。写真では見えづらいが、湾内では茶色い水が、湾外では濃紺となっている。私も全国津々浦々巡ってきたけど、ここまではっきりと水の色が違う光景はなかなか見ない。

 そうこうしているうちにフェリーは日本海へ。

 
 最高時速80kmで海上を走るという。あまたの恐怖症を持ち合わせる私だが、もれなくスピード恐怖症でもある。海のど真ん中という恐怖心と相俟って、時速の表示を見ただけでビビる。
 ときどき「高速フェリーが航海中にクジラなど衝突してケガ人が~」というニュースを目にするが、それも頷けるなと納得した。
  cf,高速船の80人重軽傷 佐渡沖、クジラと衝突か – 日本経済新聞

 そうこうするうちにだんだんと佐渡の姿が近づいてきた。
 
 佐渡の主だった玄関港としては、佐渡島の中央に近い両津港と南端に位置する小木港がある。小木港には直江津港との間に航路がある。
 また島内には佐渡空港もあるが、2014年以降無期限の休止状態にある。滑走路を延伸したり羽田と結ぶ航路を検討したりと、さまざま構想はあるもののいまだ実現されていないとのこと。
 
 
 

黒木御所跡

 さて、今回はママとのスケジュールの関係上、島内の史跡巡りをレンタカーを借りてまわることとなった。
 佐渡島上陸後まず向かったのは順徳院が島内で住んでいたという御在所・黒木御所の跡。
 
 場所は佐渡市泉地区。両津港から車でおよそ20分ほど、市街地からすこし山辺に入ったのどかな農村の真ん中という感じ。御所跡の向かいには郵便局、両脇には民家が並ぶ。
 
 
 御所跡内の木々の背はどれも高いが、史跡内はしっかりと整備の手が行き届いている。
 
 
 御所跡の傍らには佐渡を訪れ順徳院を偲んだ歌を詠んだ歌人たちの碑が並ぶ。

 承久3(1221)年5月に起こった承久の乱。その後、7月21日に佐渡配流として都を発った順徳院は、後述する佐渡市真野にある恋ヶ浦に到着した。しばらくは、当時の慣例として近くにあった国分寺を仮御所として過ごしていたようだが、のちにこの黒木御所に移ったとされている。黒木とは皮つきの木材で建てた粗雑な建物のことをさしている。
 順徳院の御在所にはやはり後述する真野宮などいくつか伝わっているが、どれも確かな史料が残されていない。
 順徳院の御陵に関する最古の記述は、文和4(1355)年に佐渡へ渡った時宗遊行派の僧・渡船が記した『巡国之記』にみられ、
 「泉といへる処は順徳院の御陵也、十善を捨ておもはざる遠島に移らせたまひぬれど、朽せぬ御名残ち有りければ、御十念したまひて、
     くちはてぬ その名は今も こけの下
              君のむかしを さぞなかなしむ」
 と記している。順徳院崩御後100余年経っているが、渡船上人が訪れた時分にはまだ御所跡は存在していたことが分かる。
 また、永享6(1434)年に時の将軍・足利義教の逆鱗に触れ佐渡配流となった世阿弥(観世清元)が記した『金島集』の中にもこの御陵の記載が見られる。
 「西の山もとをみれば、人家いらかをならべ、都とみえたり、泉と申す処なり。これはいにしへの順徳院のご配所なり」
  
 
 現代の人々の生活圏内のすぐ隣にあるというのがよくわかる。

 
 この御所跡周辺には順徳院のものを含め、数多くの史跡が残されている。
 『佐渡名勝志』の注釈などによれば、ここには「御腰掛の石」と呼ばれる大石があり、昔より鎮守を仰がれていたという。
 また順徳院は佐渡配流後にも皇子・皇女をもうけており、その墓所なども点在している。
 
 
 

恋ヶ浦

 さて一路、今度は佐渡市真野地区へ。
 まずは真野地区を少し過ぎたあたりの海岸線から。
 
 ちょうど湾の形がきれいに見える。先の黒木御所跡のある泉地区は、写真中央の山裾あたりになる。

 
 ちょうど佐渡島の真ん中のくびれ部分の西南部にあたる。対岸の遠景が実に美しかった。
 ちなみに左側の岩は『人面岩』と呼ばれていて、人の横顔のようにみえる。

 この海岸沿いを走る国道から一歩海岸線に入ると、それまでどこか昭和の風景を残しているかのように見えた街の風景が一変、由緒正しい漁師町という感じになる。
 

 そしてこの海岸沿いに佇むのが
 
 恋ヶ浦石碑群

 これらの石碑はもともと近くを流れる川の河口にあったが、漁港整備のための工事の際、ここへ移設・集積したという。
 
 
 地元では稗粥伝説として知られる逸話の碑。
 恋ヶ浦に着いた順徳院を地元の漁師が稗の粥でもてなした際に詠んだ歌
 「これほどに 身の温まる 草の実を
      ひえの粥とは 誰かいふらむ」
 当時の公家の日記など読んでみると食卓には「アワ」「キビ」などもあがっていたようだけど、天皇・上皇位の食事に「ヒエ」があがったことはあったのだろうか? とふと疑問に思ってしまったw

 
 
 
 伝承によると、順徳院は現在の新潟県長岡市寺泊から船で渡り、最短地であった南東部の松ヶ崎に着いた後、磯づたいに南部の小木半島を迂回し恋ヶ浦に着船したといわれている。
 松ヶ崎からこの真野へ陸路で行こうとすると険しい山道を通らなければならないという心配があったのだろう。
 
 
 
 さてこの恋ヶ浦という地にまつわる話しで、佐渡の文化的風土的背景を知ることができるものがある。
 「佐渡は、越後から見れば海の上にある。」という書き出しで始まる司馬遼太郎の佳作『胡蝶の夢』は、近代医学の導入に情熱を燃やした若者たちの群青劇だが、その中の登場人物の一人である司馬凌海(本名・島倉伊之助 1840~1879)はこの恋ヶ浦の近くで生まれ育った。
 まだまだ封建的社会色濃い江戸後期、人びとの自由な往来・移動など叶わなかった時代にあってわずか11歳で江戸に出て医学を学んだといわれているが、それほどまでに当時の佐渡には自由な気風があったことがうかがえる。
 というのも、現在でも観光地として有名な金山を有した佐渡は、幕府が資金源としてその開発を進めたため江戸期を通じて一国天領だった。つまり一国の殿様たる藩主をおかず、佐渡奉行が統治していた。藩主がいないということはそれに従する武士階級も少なく、また今の官僚にあたる奉行職は数年ごとに交代するため、それほど堅苦しい雰囲気もなかったのだろう。また、江戸期の海上物流は主に日本海側が中心であったため、他地域の人々との交流も頻繁だったのだろう。
 現在も観光地として栄えている佐渡島だが、離島にありがちなどこか隔絶された雰囲気を感じなかった。むしろ島外から来た人にも島民かのように接してくれる懐の深さがあった。それらもこうした歴史的な背景があるからが故なのかもしれない。
 
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真野宮

 
 佐渡市真野を代表する史跡・真野宮。
 ここは順徳院の他に菅原道真、日野資朝を祀る神社で、もともとは国分寺の末寺・真輪寺(真言宗)だったが廃仏毀釈により現在の形となった。その後順徳院は大阪の水無瀬神宮に還御・合祀されたが、地元民の情願によって御分霊を許された。

 
 現在の社殿は大正9(1920)年に建てられたもの。

 
 
 本殿の傍らには真輪寺の跡、そして順徳院御在所跡の石碑、五輪塔や移築された古墳が整備保存されている。
 この真野宮もそうだが、今回の順徳院にまつわる史跡を巡って感じたのは、とにかく一か所を除きどこの史跡も丁寧に手入れがされている点だ。いまなお崇敬されている感を否めない。
 ちなみに「一か所を除き」としたことについては、次稿『後編』の方に譲りたい。

 また、真野宮には順徳院について記された『真野山皇陵記』という書が現存している。巻末の記述により、文明14(1482)年に真輪寺の僧某により成立したとされているが、研究者などの指摘により江戸中期の真輪寺の僧・融弁の筆ではないかとされている。この点については次節『真野御陵(火葬塚)』で再び触れる。

 さて、この真野宮の隣にあるのが
 
 佐渡歴史伝説館

 佐渡配流となった順徳院・日蓮・世阿弥の人形劇をいくつかの情景別に分けて見せてくれる。特にこれといった資料の展示があるわけでもなく、情景ごとに機械仕掛けで動く人形劇を見るというだけの施設だが、館内の職員さんによる伝承の説明や佐渡出身の人間国宝・佐々木象堂記念館(鋳金)も併設しているのでいろいろ見どころはある。
 佐々木象堂記念館は皇居正殿の棟飾りである『瑞鳥』の製作者で、氏の作品の数々が時系列的に配置されている。
 
 また。館内には広く土産屋さんがとられているが、ここでかつて働いていたのが、北朝鮮による拉致被害者の1人である曽我ひとみさんの夫で2004年に日本に亡命し、2017年に亡くなったチャールズ・ジェンキンスさん。勤勉で優しく、明るい人柄だったという話しを当館で聞いた。
 
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真野御陵(火葬塚)

 先の真野宮より数百メートル山を上がったところにあるのが真野御陵(順徳天皇火葬塚)である。
 
 この道の両側にも田んぼや民家が広がる。

 
 振り返ってみると大分高いところまで上がってきたのがよくわかる。

 そして、鬱蒼とした木々の中に鎮座しているのが

 
 火葬塚。
 巨木が経ち居並ぶ中、ひっそりとたたずんでいる。
 昭和天皇や皇太子時代の上皇陛下が参拝した折の写真なども残されており、手厚く保存されてきたことがうかがえる。

 だが、先節で紹介した『真野山皇陵記』はじめ、真野が順徳院の生活の中心であったとすることには、地元の研究者などから疑問の声が古くからあげられている。
 黒木御所跡などでも紹介した渡船や世阿弥の筆による文献がある一方、真野に関しては『真野山皇陵記』のほか、延宝7(1678)年に佐渡奉行に提出された訴状が最も古いものとされている。
 ちなみにその訴状は本寺国分寺の僧・賢教と真輪寺の僧・賢照の連名によるもので、内容的には
 「順徳院が真野山で20数年間を過ごし、奥の院・阿弥陀堂で崩御した」
 「霊廟の勤行を長年務めてきたが、戦や風化で荒廃がすすんでいる」
 「真輪寺の境内に御陵を設置することを希望」
 といったことが綴られている。このことをうけ翌延宝7年、真野御陵が築造される。
 
 これらの史料は明治期に天皇北越御巡幸に際して行われた当時の宮内省の史跡調査で典拠とされ、その調査は『順徳院天皇御遺跡捜索之記』という文章で報告されている。
 しかし真野に関する史料の初見が江戸中期なのに対し、黒木御所などほかの史跡に関する史料は先の渡船や世阿弥のものを筆頭にそれよりも更に古い。
 法老翁こと孤高の郷土史家・橘正隆氏は「折角の大命を拝しながら、肝必要な古文書の検討を怠り、徒らに土地の伝説をかき集めて行ったに過ぎず、即ち『捜索の記』ではなくして、伝説採集の記に終わってしまって居り、それは正に聖蹟の真姿を、益々混沌の泥中に埋没せしむることに成功せる結果を招いたものと云えよう」と酷評している。
 また佐渡に伝わる順徳院の伝説・伝承は現在の黒木御所跡周辺に集中している。
 特に今回は行かなかったが灰塚や荒貴大明神といった史跡に関する逸話や考察など、現在の黒木御所跡周辺こそ本来順徳院が過ごし崩御された地域なのではないかという見方が強い。

 いずれにしても、どちらに御在所があったのか、断定できるものはない。長い歴史の年月の中で埋もれてしまった数多くの史実がいかに多いことか痛感させられるとともに、そこを史料や伝承、古跡にあたりながら考察するというのも歴史学の面白い部分だと感じる。
 なにより今回の旅で、隠岐の父・後鳥羽院の史跡とならび佐渡の順徳院の史跡もまた、地元の人々の篤い崇敬の念をもって大切にされていることが痛いほどによくわかった。
 
 
 

国分寺跡とエピローグ

 最後に巡ったのは国分寺の跡。
 
 
 聖武天皇の詔をもとに国家の平安を祈らせる目的で国ごとに設けられた国分寺。佐渡国分寺は天平宝字8(764)年に落成したと伝えられ、先述の通り、佐渡についてすぐの頃、順徳院も住まわれた場所。
 
 その礎石などが丁寧に保存されており、奈良時代の建物がどのように配されているのかが実際の大きさを伴って理解できる全国でも珍しい史跡。
 
 なお現在の国分寺はすぐ隣にある。建立は江戸初期と伝わっている。
 
 
 
 
 とまあこんな感じで順徳院にまつわる史跡を見て回ってきました。
 ……が、実はもう一か所、本稿では紹介していない史跡に行ってきました。

 その場所とは、順徳院崩御の地といわれる『堂所御所跡』。

 現在の真野宮が真輪寺であった時代、その奥の院があった場所と言われているのですが、地元の人でも行き方を知らない、あるいは存在さえ知らないという佐渡屈指の秘境。
 
 ですので『堂所御所跡』については、稿を改めその道程を含めて紹介したいと思います。
 
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 順徳院御集

 
 
 
 今回のお宿からの眺望。
 
 両津港近くにある加茂湖。夕日が淡く映えていた。
 
 
 
 ≪佐渡の入江の順徳院 後編~後鳥羽院をめぐるフィールドワークその2~≫ へ続く……
 
 
 

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