レポート 後鳥羽院project

【とはずがたり】「『明月記』の後鳥羽院」よもやま話

2022年02月22日

 
 
 

 調査・研究に用いているノート。
 

 「藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿」調査中の机の上w
 

目次

     ・きっかけ
     ・隠岐、集中豪雨
     ・愛憎半ば、悲喜交々 その1
     ・愛憎半ば、悲喜交々 その2
     ・ママ、クルマにはねられる
     ・『吉記』のこと
     ・青天の霹靂
     ・ママ、怒る!
     ・老いたる定家と後鳥羽院
     ・拝啓、藤原定家さま

 
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 夢のなかぞら―父 藤原定家と後鳥羽院
 

・きっかけ

 
「まあ、またなんとも面白そうなことを……」
 
 
 
 2021年春、私はママにとある企画書を送った。それは後鳥羽院の研究史を我々なりにまとめてみませんか? という内容のものだった。
 後鳥羽院研究史自体は谷昇博士の手により詳細なものがすでに発表されている(cf,谷昇「後鳥羽院政の展開と儀礼」収録)。とはいえやはり専門家が書いたものだけに、内容もなかなか高度で初学ないし素人にはハードルが高い。そこで素人に毛が生えた程度の我々の視点から、初学から専門のその中間を埋めるべく、なるべく平易な解説を交えた研究史抄を編めないだろうかと考えたわけだ。

「でもねぇ、ワタシももう歳で最近は目が全然ダメで・・・」

 なんともママにしては弱気な発言。
 なんでも2020年末よりかなり視力の衰えを感じるようになったとか。もっとも80歳近い老婆に酷なお願いをした私も私だ。
「ま、明日にでもメガネを新調してなんとかしてもようとは思うけど……少しお時間を下さいまし」

 なんということか。
 自称「多忙な暇人」と豪語するママ。日々野良仕事に明け暮れ、一日に限られた時間を割いてブログの更新や自身の研究、最近まったく更新できていないYoutubeなんかをチマチマやっている私に比して、ママは圧倒的な量の関連書籍や論文を読み漁っている。そんなママの協力が得られないのならば、この研究史抄の企画はまったく成立しない。暗雲が立ちこめた。はて、どうしたものか?
 しかし無理強いもできない。かといってせっかくの承久の乱800年の年である。なにか、インターネットの片隅に爪痕を残したいと考えていた私であったが、もはや万事休すか?

 ただ昔とった杵柄よろしく、私はふとあることを思い出した。
「そうだ、定家の『明月記』がある!」
 今から遡ること10余年前、当時自主制作映画の撮影に明け暮れていた私は、藤原定家と源実朝の交流を現代風にアレンジした作品の着想を得ていた。結局その企画自体は「あまりにもスケールが大きすぎる」ということで頓挫してしまったが、その当時にかき集めた資料のいくつかは、未だに手元にある。
 特に藤原定家の日記『明月記』。この56年に及ぶ鮮明な記録は、当代の治天の君たる後鳥羽院の姿を現在に伝える上で最重要の史料である。もちろん九条兼実『玉葉』なんかも詳しいが、『明月記』は和歌というひとつの大きな共通項を持っている。
 今では復刻版も出ているが、当時購入した明治44年出版の明月記は全三冊ぞろいでウン万円。貧乏学生の身の上ではかなり痛い出費だったが、背に腹は代えられなかった。
 そうして私の手元にやってきた明月記なのだが、件の自主制作映画に関わる以外にも、それ以降、事あるごとに格闘することとなる。

 そして2021年夏。
 『明月記』を通して語られる後鳥羽院像を詳細にまとめた先行研究が見当たらない。部分的なものはあっても、『明月記』全体を通してというものは皆無だ。もっともこうしたまとめが如何ほどの学術的価値を持つものか、素人目にはわからない……。
 しかし、「ないなら自分でやってやろう!」と相変わらずの無謀さを棚に上げ、私は再びこの奇怪千万な書物と対峙することにした。
 
 
 

・隠岐、集中豪雨

 2021年8月、台風一過の不安定な気圧配置下、隠岐諸島上空に出現した線上降水帯は「50年に一度の記録的な大雨」をもたらした。
 ここ数年、後鳥羽院がらみで隠岐在の方々とSNS上でちょくちょく知り合ってきたが、その時も皆その被害の状況を次々とタイムライン上にあげてくれていた。

 私はそれを遠く離れた北海道の山中、草刈り途中の田んぼの畦道でぼんやり眺めていた。
「あら、この大水流れてるのアソコの川だな……?」
 一度訪れただけとはいえ、島前・中ノ島の風景は目に焼き付いている。

 その数日後、所用あってママと電話をした際、件の隠岐集中豪雨の話題があがった。
「隠岐の方はなんだか大変みたいね……」
 という平穏な前振りは、案の定予想を裏切らない展開にもつれ込む。
 
「ホント(後鳥羽)院ったら、もうお喜びのようで……(笑)」
 
 安定のママ節である。

 承久の乱800年にあたる2021年。同時に後鳥羽院隠岐遷幸800年の節目にもあたる。
 曰く、8月を旧暦に直せばおよそ9月にあたる。後鳥羽院が隠岐に到着したのは8月25日。これは院が隠岐遷幸800年を喜んでひと思いに雨を降らせたに違いないと……。
 俗説だが、歴史上の人物を祀る神社仏閣・史跡を訪れた際、荒天であればあるほど歓迎されている証、というものがある。そしてママ曰く、後鳥羽院は日本史上最恐の怨霊なのだから、来る人を待たずとも自分から行きかねない、と。あの集中豪雨は、院が隠岐へ祝福を与えてるようにしか思えない。多少表現を誇張しているが、そんな感じの御説である。

「我こそは新島守りよ隠岐の海の
       荒き波風 こころしてふけ」

 隠岐に渡る船上で後鳥羽院はこう詠んだと伝えられているが、どうやら800年の月日を経てもなお御心は健在のようだ。
 以前にも書いたが、ママは平成以降の天変地異のすべてについて、来るべき遷幸800年に向けて後鳥羽院が「殊勝じゃ!」と言わんばかりに引き起こしたものと信じている。昨今ならば即刻炎上しそうな内容の発言であるが、私自身、あながち否定できない心持ちである。もちろんママとのやりとりの中で、少なからず影響を受けたこともある。
 またこのようなオカルトチックな言説に惑わされ、想起されるすべての事象を一括りにしてしまう心理学的影響も熟知しているつもりではある。しかし私自身、生前のリアルな後鳥羽院の姿を知る諸公家が記した記録を一応読み込んでいる自負もあって、その上で
「後鳥羽院ならやりそう……」
 と、思ってしまうのだ。
 そう、あの御方ならやりかねない。そして後鳥羽院の御霊に見初められたママが言うのだから疑いようがない。

 正直、ウンザリである。
 
 
 

・愛憎半ば、悲喜交々 その1

 2021年8月末に『「明月記」の後鳥羽院』その1を公開して以降、私と『明月記』との格闘の火蓋は再び切って落とされた。なにか一つの目標をもって事に対峙するのは、実際問題心地よいものである。
 しかしその開始時点ですでに問題は起こっていた。

「すっごく楽しいんだけど、すっごくしんどい……」

 これは何も、日々時間に追われ多忙を極める私自身の身の上に起因するものではない。
 断言しよう、それは『明月記』の著者たる藤原定家卿に全ての責任がある。

 結論から言うと、定家卿はとんでもなく性格が悪い(←冷泉家の皆さんゴメンナサイ)。最早、人間性を根本から疑うレベルである(←重ねがさね申し訳ありません)。
 もちろん私もそのことは重々承知はしていた。しかし何回目の通読か知らん、改めて『明月記』のそれを紐解けば、
「あ……定家ってこういう人だったよね」
 と、そんな言葉しか出て来ない。なんと皮肉なことか。

 定家卿は、自身の出自たる「御子左家」の名誉挽回を画策すべく、生涯をかけてその地位向上に並々ならぬ意欲を示していた。なにせ、当代においてややしばらく官位の低い公家の家柄である。本来公家とは三位以上の位階を世襲する家のことだが、御子左家自体、藤原北家の流れをくむものの家格も羽林家(摂家・精華家・大臣家に次ぐ家格。同列には名家、その下には半家が位置する。最高位は大納言)である。
 父・俊成をして定家・為家と、後のち中世歌壇の中心的指導者たる地位を確立するに至る家柄ではあるが、定家が出仕しはじめた頃にはそんな未来は想起もできない惨憺たる状況だった。
 後年、定家の子女の邁進も相俟って、自身、最終的には正二位・権中納言にまで昇り詰めるが、その実は出家する前年の71歳という遅すぎる春だった。
 そもそも従三位に任じられた時点ですでに51歳。同僚には自分より年下の者も多く、また彼らの方が先に昇進していった。
 一方、子息・為家は28歳で従三位に任じられた後、トントン拍子で出世街道を歩み、40歳で正二位、43歳で権大納言にまで昇り詰めている。

 なぜここまで定家の出世は遅かったのか?

 諸説あるが、多くの研究者はその理由を彼の人間性にあると指摘している。
 先述の通り、藤原さん家の定家卿はとにかく底意地が悪い。『明月記』を読み進める上での困難は、堀田善衛氏も指摘する有識故実の夥しい列挙のほかに、やはりその人間性だ。正直読んでいるこちらの性格までねじ曲がってしまいそうなのだ。
 
 
 

・愛憎半ば、悲喜交々 その2

 私の本来の専門はインド哲学仏教学である。
 仏教教典に接する機会も非常に多く、世間一般の人に比べて漢文には日頃からかなり慣れ親しんでいる方だろう。とはいえ、仏典漢文もそれ相応に独特で、本来の漢文の性格と異にする点は多々ある。
 しかし公家日記となるとその様相もまた一変する。なにせ日本で進化・成熟された漢文、俗に変体漢文と呼ばれるこれまた独特な文章が並ぶ(この変体漢文は後代、泉鏡花などに継承され、独自の当て字をかぶせる情緒的文章表現の下地になったんだろうな)。
 殊『明月記』に至っては官職のみで人物を指している場合も多く、加えて人物名がたびたび省略されている。更には省略されている人物名が文章の途中で別の人物のものに変わっていたりと、そんな文章としょっちゅう出くわす。ただでも読みづらい文章が、二重三重と輪をかけて読みづらい。
 
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 変体漢文(新装版)
 
 それ故だろうか? 時々参考資料までに目を通した『平家物語』や『増鏡』など、和漢混合の文章を読むととてもホッとしたものだった。
 『たまきはる』『高倉院厳島御幸記』などの名文は、当時の王朝の雅な雰囲気をそのまま伝えてくれて、なんとも奥ゆかしい心持になった。

 これだけなら単に生き抜き程度で済む話しなのだが、問題は現実とのギャップである。
 そんなことをやってる最中でも、田舎にありがちな世間ごとに駆り出される。
 とある懇親会の席上、やれクルマがどうのこうの、やれ誰それがどうのこうのと、世間話や趣味の話しで賑わう会場内で、私一人、脳内が現実世界に戻っていないのである。

 「ボクの中では今から2時間前、安徳天皇が壇ノ浦で入水したんだよなぁ。三種の神器が海に沈んじゃったよ! 大変だよ!」

 世間話に耳を傾けながらも、頭の中ではそんな妄想が経巡っている。
 もっとも、普段インドの古典文学や仏典を読み漁っているのだから、同じような症状はたびたび起こる。しかし件の定家卿の性格の悪さにだいぶんメンタルをやられている分、事態はより深刻である。

 そんな時、たびたび思い出されるのが西脇順三郎の「山櫨の実」(「近代の寓話」収録)という詩である。

「なぜ私はダンテを読みながら深沢に住む人々の生垣を徘徊しなかればならないのか 追放された魂のように」

 なぜ私は『明月記』を読みながら、北海道の山の中の人々の世間話に耳を傾けなければならないのか? いや、自業自得だろ。
 
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 西脇順三郎詩集 (岩波文庫 緑130-1)
 
 
 

・ママ、クルマにはねられる

 『藤原定家「明月記」にみる後鳥羽院』のその1公開後だったろうか? 元妻と電話口で話していた際、唐突に
「そういえば聞いた? ママ、クルマにひかれたんだって……
 寝耳に水である。「はぁ!?」という言葉しか出てこなかった。

 伝え聞くところによると、下町生まれ山手育ちのチャキチャキの江戸っ子たるママは、現在住まう東海地方某市より勝手知ったる某御茶ノ水界隈を散策していたところ、横断歩道で曲がってきた乗用車にはね飛ばされてしまったらしい。

 「ででで、マ、ママはっ!?」
 正直、私もその報に狼狽えてしまった。なんせもう70オーバーの老女である。本人は「(後鳥羽)院のおかげでホント長生きしそう(笑)」と常々宣ってはいるが、クルマに轢かれるとなると事態は深刻だ。
 
 
 
 「それがねぇ、あのBBAったらピンピンしてやがんのよ……」
 
 
 
 元嫁の一言に安堵するとともに案の定の気運が漂う。
 
 そもそもこの一連の後鳥羽がらみに私を引き込んだ張本人はママである。ママが後鳥羽院単推しになるきっかけを作ったのが私と元妻であったとしても、そのことは覆らない。また佐渡行の話しが持ち上がって以来、私は後鳥羽がらみのことに関してはママと心中する心づもりでいる。一蓮托生なのだ。
 そんなママに先立たれては自分としても実に心細い。せめて一区切りつくまでは、どうにか達者でいてもらわないと話しにならない。
 もっとも、その一区切りをパンツのゴムのように延び延びにさせているのは私に他ならないが。……
 
 いつぞや書いたが、ママの旦那さんは落語に出てくる旦那衆よろしく「しっかり女房のグータラ亭主、太平楽のノンケのしゃあ」を地で行っていたような人だった。その旦那さんを亡くされて早10余年。
 近年はセルフネグレクトとまでは行かないまでも、元来の病院嫌いも手伝って「体調崩したからってそんな病院なんか行かないわよ。いつ死んでもイイって思ってるんだから」と豪語していた。
 ママのことだし、私自身その言葉の意図を汲めなくもないが、それでも早々に逝かれてしまっては当方が困ってしまう。
 先にも書いたが、顔を合わせる度「ホント(後鳥羽)院のおかげで長生きしそうだわぁ」と言っているのだから、世話もないが。……

 更に話しには続きがあって、なんでも駆け付けた救急隊の制止を振り切り「とにかくワタシは大丈夫だから、気にしないで」と救急車に乗ることさえ拒否したらしい。
 轢いてしまった側にはそれなりの刑事・民事的な手続きがあると予想されるが、ママは「そういうことはいいから、一刻も早くワタシをここから解放して!」と、とにかく立ち去りたい一心だったらしい。なんともはた迷惑な被害者である。
 ママらしいといえばママらしいが、正直なところ聞いているこちらの寿命の方が縮んでしまいそうだった。
 
 電話口で元妻には「全身が痛い……」と呟いていたそうな。歳も歳だ。いくら威勢のいいことを言ってもそれ相応のものなのだから、もう少し穏便に事を進めてもらいたい。勘弁してくれ、頼むから(笑)
 
 
 

・『吉記』のこと

 東京在住の頃、3万冊近い蔵書があった。ほとんどが資料用の書籍で、住んでいたアパートの近くにトランクルームを借り、そこに大半のものを詰め込んでいた。

 で、10年ほど前、北海道に戻ることになった際にどうしても手放したくないものと場所をとらない文庫・新書類だけ手元に残し、ほぼ全ての書籍を懇意の古書店に委ねた。お公家さんの日記に関しては『明月記』だけ手元に残った。

 それから数年。
 東海地方某市在住のママに呼び出され、後鳥羽がらみの一連の話しを持ちかけられてから、「やっぱり必要だな……」と感じてその周辺の書籍を再び収集しはじめた。
 近場の旭川の図書館にもある程度はあるものの、納得できる量ではない。無論、国会図書館まで行けば必要なものは閲覧できるが、ほんの数ページ数行のためにわざわざ上京も出来ない。遠隔地への複写サービスもあるが、著作権等の関係で書籍の全コピーはもちろん不可能。だから手元に置いておくしかない。

 「手放すべきじゃなかった……」そう思っても後の祭りである。

 そんなある日、皆さん御用達(?)の「日本の古本屋」さんで注文した吉田経房の日記『吉記』が我が家に届けられた。注文時、書店からのコメントで「書き込み有」の報を受けていたが、私はそこら辺をあまり気にしないので発注した。
 
 そして手元に届けられて開巻したところ、実に驚いた。
 繰るページ繰るページ、夥しい書き込みがある。しかもその書き込みのいずれも綿密かつ『吉記』を読み進める上で重要な事柄ばかり。
 

 (甚之助蔵の『吉記』)
 
 正直、素人あるいは学生レベルのものとはとても思えない。
 なにより背表紙下部が完全に擦り切れている。
 「さては、もともとこの辺りを専門にしていた研究者の蔵書だったのでは……?」
 そんな予感がした。しかし愛蔵家に多い蔵書印や読了等の記念書き込みはないので、どこの誰の蔵書であったかまでは検討がつかない。
 それ故ますますの確信を得る。
 いずれにせよ、何の因果か、相当な歴戦の果てに元の持ち主の手を放れ、それが自分の手元にもたらされたこと、そこに深い感銘と感動を覚えた。

 蔵書は散逸するものである。
 かつて私の手元にあって、懇意の古書店にその始末を託した蔵書もまた、今では誰かの書架に並んでいることだろう。
 同時に、私が昨今再び買い直している書籍は、かつて誰かの書架におかれ必要とされていたものだ。
 それが経巡って私の手元にもたらされたことに、時間を超越したバトンタッチ、リレーのような白熱した歓喜を呼び起こされる気がする。

 浪人時代の恩師の一人が講義中、恩師の恩師にあたる先生が他界された時の話しをしてくれたことがあった。
 曰く、「先生の書斎を訪れる前に通った、テニスコートくらいの面積の書庫、そこにあった夥しい蔵書が、亡くなった数日後には古書店に引き渡されてモヌケの殻になっていた。あの光景には愕然とした……」
 当時は何気なく聞いていた話しだったが、今思えば戦々恐々とする事態である。

 諸行無常。形あるものはいつか無くなる。
 同様に、書籍に限らずコレクトしたものもまたリリースされるものだ。たとえそれがコレクトではなくセレクトされていても。。。

 繰り返し言うが、蔵書は散逸するものである。
 北海道に戻って10年経つ。後鳥羽がらみのおかげもあって蔵書は1万冊を越えた。
 実家の倉を改良して書庫にしたが、すでにそこにも置ききれず、日々増える蔵書に難渋するばかり。そりゃあ毎月100冊以上の本を読んでいれば自明のことである。しかし、どの本にも一つひとつ思い入れがある。電子書籍も導入しているが、やはり質量というものは気持ちいいもので、ついつい書籍版を選んでしまう。その結果がイコール現状だ。自分でもここ数年、少々やりすぎてしまったことは否めないでもないが、愛読家としての性がそこにある。書籍以外はミニマリスト的な生活を送っているというのに……。

 現在書斎を構える部屋が家屋の二階にあるので、一体いつ床が抜けることか、そればかりが心配な今日この頃。
 
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 蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか
 
 
 

・青天の霹靂

 『藤原定家「明月記」にみる後鳥羽院の姿』の記事を公開ごとに、ママへはプリントアウトしたものを送っている。
 それぞれ誤字脱字、あるいは抜けがそのままであることは覚悟の上でだが、「それにしても先生(ワタクシのこと)、よくやったわね~」と毎度好感触をもらい自己満足している次第。

 「その7」を含めたものを送った後だろうか? Twitter上にて、フォロワー内外からDMにて「『明月記』以前のものもまとめてください!」といった内容の話しをもらうようになった。
 実際『明月記』は後鳥羽院が生まれた治承4年から始まっているので、それ以前の公家日記に後鳥羽院の姿など記されているはずもない。だがそれはそれとて、なんらか院の人生に影響を及ばしたであろう事柄を調査してみるのは面白そうだった。当時、「高倉院のもとに七条院が入内したあたりから調べてみればいいかな~」ぐらいにしか考えていなかったことは白状しておこう。

 だがその安易な見積もりは途方もなく間違っていた

 この話しを電話口でママに伝えたところ
 「先生はどうなのかしら? 多くの研究者は後鳥羽院の人生を物語る時、その起因を(木曽)義仲-後白河院の関係性に落とし込んでいるように思えるんだけど……」
 
 「青天の霹靂」「寝耳に水」とはまさしくこのことである。
 自分も自分とて、それなりに関連書籍や論文を読んできたつもりではあったが、改めて指摘をされるとそうした視点が自分の中で完全に抜け落ちていたことを痛感せざるを得ない。
 「ママ、ありがとう。それ、考えたことなかったわ……」
 
 圧倒的な虚脱感に襲われた。

 しかしどこから新たむるべきか?
 私の中で真っ先に思い出されたのは、慈円『愚管抄』の一節である。
 「鳥羽院ウセサセ給テ後、日本國ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ」
 この一言だ。
 「ここからか~」と頭を抱えたことは否めない。なにせ鳥羽院崩御は後鳥羽院が産まれる24年も前である。
 
 読むしかない。当時の公家日記を読むしかない。自分に与えられた命題はそれしかないのだ。
 後鳥羽院の人生に少なからず影響を与えたであろう歴史的事項、その一つひとつを拾い上げる。2022年元日早々からその作業が始まった。
 「その1」の大幅な加筆修正と共に、鳥羽院が崩御した保元元年から治承3年までの歴史的事項を拾い上げた頃には、1月も下旬に差し掛かっていた。

 「ホントに今月(1月)中に記事公開できるのだろうか……?」

 やり過ぎてしまった感だけが残った。
 
 
 

・ママ、怒る!

 先の「その7」を送った後のママとの電話での話し。
 「それにしても……」というゆっくりとした前置きの後、ママは口角泡を飛ばす勢いで
 「遷幸八百年記念大祭が行われたことは誠に喜ばしいし、隠岐の方たちの今なお変わらぬ院への敬慕も素晴らしいけど、本来これは"国家的一大行事"のはずよ!」
 と言うのである。
 曰く「オリンピックだか北京ダックだか知らないけど、そんなことやってる場合じゃない!」と。
 
 確かに、昭和14年に行われた七百年式年祭は、近衛文麿の注力による隠岐神社創建などと相俟って盛大に挙行されたようだ。
 院の「武家政権専横に対し、身を挺して正道を守ろうとした天皇」という評価を定着させる功を示したが、果せるかな今回の八百年祭における日本国として対応はいかほどだったことか?
 私自身、例のウイルスがらみのこともあって、この八百年祭の傍らに臨むべく隠岐行は叶わず、その実際を知らない。

 ママの熱弁は続く。
 「国家国民をあげて院に奉じるべきよ!」
 昨今では下手すれば炎上案件になりかねないので、あまり過激なことは語りたくない。そして先にも書いたことだが、ママは平成以降、この国を襲った数々の天変地異は来るべく隠岐遷幸800年に際し、後鳥羽院が起こしたものと信じてやまない。なにより、菅原道真・平将門・崇徳院を越える日本史上"最恐"の怨霊こそ後鳥羽院であるという喝破の言を、何度聞いたことか。。。

 その上で私の内心はというと、「この国も随分と後鳥羽院のことを甘く見ているな……」と思うに至るのである。当然ながら、後鳥羽単推しのママの影響をモロに受けていることは認める。ママほど情熱的ではないが……。
 
 
 

・老いたる定家と後鳥羽院

 
 『明月記』を通読したのが何度目か記憶にない。その都度、必要に迫られてこの偏屈な歌人の残した日記と格闘した、そんな印象があるばかりだ。
 「あ、ここではそうだったよね」とか、「そうそういつもの通りというか案の定」といった風に、幾度この人の人生のそれをなぞってきたことか。そもそも初めて目を通した時、こんなにも長い間付き合うことになるとは予想だにしなかった。

 しかし今回、後鳥羽院というフォーカスを得て改めて読み進めると、果せるかな自分でも驚くような光景を目にすることとなった。

 それは、年老いた定家の姿である。
 もちろん今まで通読した際も「建暦元年。おお、定家ももう50歳か~」などと感じたりしていたが、今回はまざまざとその年老いた姿を垣間見たような気がした。

 具体的にいうと、寛喜2年、定家69歳晩夏の記述である。

「七月十六日、乙巳、天晴、(中略)入夜宰相来、明日資雅中将可初参右大臣殿、此事引導口入可進名簿歟、予初参故入道殿(文治二年)、之時不進、先考相具参給、召御前之後、奉公已三四代、雑役如匹夫、雖自身事其作法不知可否、成定朝臣初参、自懐中取書付、奏者之由聞之、他人之所為多不聞之、事體以進爲本式歟之由答了」

 ざっくり現代語訳すると
「7月16日乙巳、晴れ。(中略)夜になって宰相(藤原為家)が来る。明日、資雅中将(源有雅の子)が初めて右大臣(九条教実)殿に参ずるにあたって、自身の身分証明として姓名を書いた名簿を提出するべきか問われる。私が先考(藤原俊成)に伴われ故入道(九条兼実)に初めて参じた時は提出しなかった。我が家では九条家へ3、4代におよんで奉公している。すでに小間使いに等しい。だが自分も経験したこととはいえ、その作法の可否は分からない。藤原成定氏が初めて参じた時は名簿を提出したようだが、他の人の作法は多く聞いていない。もしかすると提出するのが正式なのかもしれないと答えておいた」
 というものである。
 
 定家が兼実の第に初参したのは、『玉葉』の記録などから文治2年3月12日とされていて、その際のことあるいは名簿を提出しなかったことは『明月記』の外の記事にも記されている(正治元年9月12日条や「建保5年11月記」にある建仁2年12月15日条など。「建保5年11月記」は今回底本とした国書刊行会本では欠落している。田安徳川家本や滋野井家旧蔵本にみられるが、その解説はあまりに煩雑になるのでここでは省略する。 cf,『明月記研究』第6号p46~50)。それらの記録は実に淡々と当時の出来事を記しているのだが、比較するにこの寛喜2年の記録は当時の記憶を子細に辿っていることがわかる。
 為家は33歳、資雅は28歳である。老齢に達した定家は、若い二人に自身が記憶する限りのことを伝えている。

 これはあくまで想像だが、この時の定家の脳裏には自らの初参の折、父・俊成もまた似たような心配りあるいは心境だったのではないかと、そんな述懐が巡っていたのかもしれない。
 俊成は若き定家に対し、たとえば高倉院が崩御した養和元(治承5)年1月14日、「庭訓不快」と叱責し高倉院の第に参ずることを制止している(ちなみに定家自身は「心肝如摧(心肝摧〔クダ〕クガ如シ)」「嗟呼悲矣(嗟呼、悲シキカナ)」と感じ、高倉院の亡骸が清閑寺に移されるのを「夜、私出交雑人見物(夜、私〔ヒソカ〕ニ出デテ雑人ニ交ワリテ見物ス)」し「落涙千万行」と記している)。
 いつの時代も父親というのは悲愴な存在であって、定家もまた蹴鞠にばかり興じる息子・為家に「不随愚父之教訓、不幸不善者、二人憖成人、觸視聴心府如摧、悲哉(愚父ノ教訓ニ随ハズ。不幸不善ノ者、二人〔光家・為家〕憖〔ナマジイ〕ニ成人ス。視聴クニ触レ、心府摧クガ如シ。悲シキ哉)」(建保元年5月12日条)と後年頻りに嘆いている。

 老年にあって、自身の若気の至りと経験から汲み取られる述懐とが気恥ずかしい様相を呈して定家にこのことを物語らせたのかもしれない。

 年老いた定家。彼の心の中にはどんな風が吹いていたことか。……
 後鳥羽がらみの話しをママから初めて持ち掛けられた際、
 「ある研究者なんかは、定家が『百人一首』の末尾に後鳥羽・順徳の歌を入れたことで、やっと後鳥羽院と定家はもとの関係性に戻れた、そんな指摘もしてるけど先生はどうお考えかしら?」
 そんな質問をされた。
 
 その当時、私は定家がらみのことから離れてすでに何年も経っていたので、正直記憶も曖昧で、更にかつて作った資料も不携帯だったこともあり
 「そうとは思えないけど……」
 などと曖昧な印象だけを答えることしかできなかった。なんとなく「もとの関係に戻れた」とは思えない、自分もぼんやり感じたことだが妙な違和感があった。

 その後数年来、定家に加えて後鳥羽院とも再び格闘する日々が続いてくると、その違和感はことあるごとに増幅していった。
 
 かつてその御製に感動し落涙した院と定家の蜜月はあまりにも短い。その後の対立するようになった二人の関係性は、承元元年の最勝四天王院障子和歌の選定をめぐり表面化し、承久の乱前夜、承久2年の内裏歌会において定家が院勘蟄居を受けた(通称:定家院勘事件)ことで遂に破局を迎える。そしてこの院勘は、承久の乱で院が隠岐配流になったことに伴い永遠に覆る手段を逸したのだ。
 『後鳥羽院御口伝』に見える定家評、それが歌人としての定家を称賛する一方で人間としての定家を酷評していることは有名である。
 『明月記』でも院が定家の歌を絶賛したという話しがいくつも残されているが、隠岐配流後にも定家の人間性を非難する言動があったことも伝えられている。
 永遠に相容れない二人のようである。

 しかし諸学者らの研究により、後年、互いに関係修復を図ったのではないかという指摘もされている。
 『新勅撰集』編纂時、宣を下した後堀河が崩御したり、後鳥羽・順徳の和歌を道家・教実"監臨"のもと切り捨てさせられたり、あるいは「宇治川集」などと揶揄されたりと、定家もかなりマイっていたことは『明月記』に嫌というほど記されている。
 そんな事情は配流後も交流を続けていた家隆や道助法親王からの手紙を通じ、後鳥羽の耳にも入っていたことだろう。
 文暦元年9月、道助法親王の命で定家は八代集から秀歌を選出した『八代集秀逸』を進上したが、同じ頃、家隆そして後鳥羽院もそれぞれ『別本八代集秀逸』を撰している。一説に、後鳥羽院が計画し、道助法親王を通じ定家に撰進させ隠岐に送ったのだという見方がある。

 そこにきて小倉百人一首の原型といわれる定家『百人秀歌』である。
 『新勅撰集』において、自身不世出の歌人として長年にわたって関わってきた和歌が、政治を理由にぞんざいな扱いを受けた。
 定家にとって、そのことはどれほどまでに許せなく屈辱的なことだったろうか? しかしこの時、よきライバルとして存在していた後鳥羽・順徳は遠島にあり、和歌所の同僚だった家隆・家長もまた没落の憂き目を見ていた。和歌をめぐり日々格闘していたあの頃は、すでに遠い昔になっている。
 だが定家の中には「昔は良かった……」などと追想の念ではなく、むしろ年老いてもなお和歌の力を信じる希望があったのではないか?

 為家の妻の父にして親交も深かった歌人・宇都宮頼綱(蓮生)が、京・嵯峨野に新築した別荘・小倉山荘の襖のために定家に依頼したものがのちに『百人一首』となったとされる。
 同時期に記された『百人秀歌』は、後鳥羽・順徳の歌がないなど『百人一首』と多少の異同がある。『百人秀歌』が『百人一首』の原撰本とする説もあれば、定家が建前上幕府側に政治的配慮を込めた『百人一首』修正版だったとする説など、『百人秀歌』に関する研究はまだまだ発展途上である。なにせその存在が明らかになったのは昭和26(1951)年のことなのだから(故・有吉保博士によって宮内庁書陵部にて発見)。
 それはさておき、ここでは『百人秀歌』が『百人一首』の原型だったとして話しを進めよう。
 百人一首に採られている歌、その全てが各詠者にとっての最高傑作ではないことは昔より指摘されてきている。歌人の水原紫苑氏なんかは「女流歌人に甘い」「(定家の)ライバル歌人にはもっといい歌がある」などと指摘しているが、その通りだと私も思う。
 だがやはり、そこに定家の恣意的な理由、すなわち後鳥羽院に対するなんらかのメッセージを伝える意図があったと思えてならない。そして『百人一首』はなんらかの手段で隠岐の後鳥羽の手元に伝えられた……。あくまで推測だが、そこになにか二人の本当の関係性を見出さずにはいられない。
 この後、隠岐では後鳥羽の手により『定家家隆両卿撰歌合』が著されている。これは定家・家隆の歌を五十首ずつ選び机上で歌合させている歌集だが、そこに採られた定家の歌は、その後半で離別した人の悲運を哀感するものがずらりと並んでいる。このことを傍証とするのはいささか無理があるだろうか?

 年老いた定家、その心には、和歌を信じる強い意志がどこまでも貫かれているように思える。
 実際、晩年近くに院と定家の関係性が修復されたと断定できる明確な史料が残されていないので、「やっと後鳥羽院と定家はもとの関係性に戻れた」とは私は今でも思っていない。しかし和歌というツールを通じ、お互いを見直すきっかけになったことは確かだろう。
 定家は晩年に至っても変わらず性悪である。だが、和歌を前にしては純真で清廉潔白だ。そして歳を重ねて積みあげられた膨大な知識と経験、それを和歌に全て託す超絶技巧。
 ふと老体の定家に、歌人としての人生の凄みのようなものを見せつけられたような気がした。

 「存外壽考、不圖迎六十七年、兄弟十余人之中、七十之齢纔二人、餘算幾日乎(存外ニ壽考〔長寿〕。圖〔ハカラ〕ズモ六十七年ヲ迎ウ。兄弟十余人ノ中、七十ノ齢纔〔ワズカ〕ニ二人。餘算幾日カ)」(安貞元年12月16日条)

 人生とはなんとも不条理で不都合で、そして非合理的である。だからこそ面白いのかもしれない。
 
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・拝啓、藤原定家さま

 
 私「アレですね、例のウイルス如何にもよるけれど、今年(2022年)の夏にはまた隠岐に行きましょう」
 ママ「そうね。ま、ワタシはそんなの関係なしにプラっと行っちゃうだろうけど」「先生行く時には合わせますよ。二回行こうが三回行こうが"多忙な暇人"にはワケないのでね、ええ」
 
 勉強不足で臨んだ初探訪の隠岐。
 あれから自分なりにいろいろ勉強した自負をもって臨む再訪の隠岐は、どのような光景として我が目に写ることか。今から楽しみで仕方ない。

 自分の中で、高校の教科書に載っていたたった数行の記載。受験等々闇雲に暗記していたあの事柄を、まさかここまで追い求めることになるとは。。。
 ただ、それが今は心地良い。
 その道の研究者でもない自分が、そこを深く深く掘り下げることに全くもって学術的価値など見い出せないが、魅了されてやまない何か宿痾のようなものがある。

 心地良い。後鳥羽院と定家というメンドクサイ二人に挟まれながらも、心地良い。しんどいけど心地良い。
 それが今の私の心境だ。
  
 

 拝啓、藤原定家さま。
 まさか自分もあなたとこんなに長い付き合いになるとは、露とも思っていませんでした。
 不世出の天才歌人、超絶技巧の和歌の名手。あなたのその名声は今でも日本文学史に燦然と輝いています。
 しかしながら、偏屈で癇癪もち、嫉妬深い性悪な人間性、批判糾弾すること火の如し、それでいてあまりにも卑屈で、意気地なしで、ちょっと体調崩しただけで「もうダメだ……」と嘆いてみたり、正直あなたの残した日記を読んでいるとうんざりします。こちらの性格までねじ曲がってしまいそうです。

 でもね、あなたの詠んだ和歌を800年近い時間を経て読ませていただきますと、「やっぱり凄いな~」「この歌好きだな~」とかいう感想を持ってしまうのです。
 だからなんとか、付き合ってこられてような気がします。
 そしてその付き合いはもう少し続きそうなので、どうかお手柔にお願いします。

 甚之助 拝

 
  
 
 梅の花にほひをうつす袖の上に
     軒洩る月のかげぞあらそふ
             新古今和歌集 44
  
 
 
 
 
 ≪おわり≫
 

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