後鳥羽院project

【ご冗談でしょ定家さん!?】『明月記』講読その1~治承四五年記①(治承四年二月~五月)~


 
 
 
 以前公開した『藤原定家「明月記」にみる後鳥羽院の姿』シリーズをやっていた頃から、いつかは『明月記』自体の講読もやりたいと考えていた。
 ただ、当の『明月記』が難解極まりないことと、明月記研究会はじめ堀田善衛御大などさまざまな研究者や愛読者がすでに多くの著作や論文を出している。またネット記事なんかでもあちらこちらで書かれていることもあって、「今さら自分がブログ上でやってもなぁ・・・」と二の足を踏んでいた。
 とはいえ相変わらずの性と言おうか、思いついたんだからやってみようかしらと、最近になってやっと重い腰をあげた。
 重い腰……。
 その理由は"こっち"の記事でも書いたことだから割愛するが、そんなこんなで再び『明月記』の扉を開いた次第。
 
 はじめに断っておくが、相変わらずなにか真新しい指摘ができるとは到底思えない。長年にわたり、名だたる研究者たちがさまざまな角度から紐解いてきた史料だ。一介のモノ好きがおいそれと太刀打ちできるはずがない。
 だが私は私なりにこの史料と格闘してみようと思う。そして例によって記事の公開はかなり不定期になると思うので、その点はご容赦願いたい。
 また残された『明月記』の記事は膨大にあるため、かなり細切れになってしまう。もちろん年月によっては数えるほどしかなかったりするが、その辺は適宜調整する。ちなみに今回の第一回目は治承四年の二月~五月まで。

 最後に、記事タイトルについてはお気づきの方もいると思うが、物理学者R・P・ファインマンの回顧録『ご冗談でしょう、ファインマンさん』から借りている。ファインマンもかなりユニークというか破天荒な人だったようで、その辺、定家と似たような空気を感じる部分があったことによる。ま、定家はファインマンのように金庫破りとかしてないけど・・・。
 
 
 Amazon
 
 ご冗談でしょう,ファインマンさん 上

 ご冗談でしょう,ファインマンさん 下
 
 

目次

    【凡例】
     
    治承四年(一一八〇)<定家十九歳・従五位上侍従>
    ・『明月記』そのはじめ(二月五日条)
    ・ある夜のできごと(二月十四日、五月二十三日条)
    ・高倉帝の譲位と安徳帝の即位(二月二十一日、四月二十二日条)
    ・高倉院、安芸へ(三月十七・十九日条)
    ・臨時祭で起こったハプニング(五月七・十三日条)
    ・以仁王の最期(五月十六・二十六・二十九日条)
    ・遷都の噂(五月三十日条)
     
     参考文献

 
 
 

【凡例】

・本文、訓読、意訳、注釈とコメントの順で記した。
・底本には冷泉家時雨亭文庫叢書『翻刻 明月記』(全三巻)を用い、適宜、国書刊行会『明月記』(全三巻)を参照した。また訓読については今川文雄『訓読明月記』河出新社書房(全七巻)を参照している。
・本文の字体は底本に準拠するが、環境依存文字など一部は通用の字体に直した。また割書は〔 〕、欠損文字については○で示し、頭書・上欄補書は基本的に省略したが適宜注釈を付した。また中略部分については、本文などでは《中略》、注釈などでは"……"と示す。
・人物の官位は記事当時のものとする。

 
 
 Amazon
 
 藤原定家 (コレクション日本歌人選)

 
 

『明月記』そのはじめ

(二月)(五日 前欠)右宰相中将〔束帯〕、参入、若釈奠之次歟、

[訓読]
右宰相中将〔束帯〕、参入す。若しくは釈奠の次でか。

[意訳]
右宰相中将が束帯姿で内裏に参入してきた。あるいは釈奠に出席した次いでだったのか?

[注釈]
・右宰相中将:藤原実守。藤原公能の子で正三位参議。母は藤原俊忠女で定家の叔母にあたる。
・釈奠:孔子やその弟子を祀る祭儀で、毎年二月と八月の上旬の丁(ひのと)の日に行われた。
 

メモ


 『明月記』はこんな突然のはじまり方をする。というのも、現存する『明月記』はこの治承四年のものがもっとも古く(天理大学付属天理図書館収蔵「治承四五年」本)、それ以前のものは欠落している。定家の子・為家が、さらにその子である為相に『明月記』を相伝したことを示す『為家状譲案』でも「故中納言入道殿日記(自治承至于仁治)」とあるだけで、正確なはじまりの年はわからない。ただ、前年治承三年三月十一日に定家が殿上人(内昇殿が許可された人)となったことを期し、日記をつけはじめたのではという五味文彦氏の説など人間心理から考えて合点がいく。きっとこれ以前にも複数日の日記があったことだろう。
 そしてこの条の日付だが、治承四年二月上旬の丁の日は五日(丁亥)であることから、現在「治承四年二月五日」と比定されている。というのも、同時期の日記である『玉葉』や『山槐記』にこの年二月の釈奠に関する記事が見られず確証がないためだ。ちなみに『玉葉』二月五日条では高倉帝が風邪気味で体調を崩したことや、『山槐記』では著者の中山忠親が直衣始(勅許を受けてはじめて直衣を着用すること)をしたことなどの記載が見える。
 

 
 

ある夜のできごと

(二月)十四日、天晴、明月無片雲、庭梅盛開、芬芳四散、家中無人、一身徘徊、夜深帰寝所、燈髣髴、猶無付寝之心、更出南方、見梅花之間、忽聞炎上之由、乾方云々、太近、須臾之○、風忽起、火付北少将家、即乗車出、依無其所、渡北小路成実朝臣宅給、倉町等片時化煙、風太利云々、文章等多焼了、刑部卿着直衣被来臨、入道殿令謁給、狭小板屋、毎事難堪、

[訓読]
十四日、天晴、明月片雲無し。庭梅盛んに開き、芬芳四散す。家中人無く、一身徘徊し、夜深く寝所に帰る。燈髣髴としてなほ寝に付くの心無し。更に南の方に出で、梅花を見るの間、たちまち炎上の由を聞く。乾の方と云々。はなはだ近し。須臾の(間)、風たちまち起り、火北の少将の家に付く。即ち車に乗りて出づ。その所無きに依り、北小路成実朝臣の宅に渡り給ふ。倉町等、片時煙に化す。風はなはだ利しと云々。文章等多く焼け了んぬ。刑部卿直衣を着し来臨せらる。入道殿謁せしめ給ふ。狭小なる板屋、毎事に堪へ難し。

[意訳]
十四日、晴。明月には雲一つない。庭の梅が盛んに咲きほころんで、良い香りがあたりに満ちている。家の中に人の気配がなかったので一人で歩き回り、夜深くなって寝所に帰った。燈はほのかにともっていて、どうも寝る気にならない。あらためて南の方に出て梅の花を見ていたところ、急に火事の知らせを聞いた。乾の方角だというからかなり近い。わずかばかりの間に風も起こって、火は北の少将の家に燃え移った。ただちに車に乗って家を出たが避難する場所がないので、北小路の成実朝臣の家に向かった。風が強く、倉町などは瞬く間に燃えてしまった。そして自宅にあった文章なども多く焼失してしまった。刑部卿が直衣を着て見舞いに来られたので、入道殿が御面会になった。避難先である成実邸の小屋は狭く小さな板屋なので、私にとってはまったくもって堪え難い。

[注釈]
・明月:十五夜とその前後の晴れた夜の月のこと。
・炎上……太近:当時、定家と俊成の家族は五条京極の邸に住んでいた。下記コメント参照。
・少将家:藤原実教の邸。従四位上左少将。
・成実朝臣:源実基の子で俊成の家司だったと考えられていて、妻は定家の兄・成家の乳母であり、定家の妹・愛寿御前の乳父でもあった。
・刑部卿:藤原忠教の子・藤原頼輔。正四位下。難波家・飛鳥井家の祖。歌人。
・入道殿:藤原俊忠の子・藤原俊成。定家の父。当時すでに出家しており、法名は釈阿。場合によっては五条三位入道とも呼ばれた。当時の歌壇の指導者的人物。

メモ


 咲きほころぶ梅を愛でる風流な夜長・・・からの一変、火事のもらい火で自宅を焼け出されるという踏んだり蹴ったりな一夜。現代のように防火防災体制が整った世の中でも延焼はよくおこる。それが木造家屋ばかりの時代ならどれほど甚大な被害をもたらしたものか。
 この日の火災について、『玉葉』『山槐記』を参照する限り午後十一時頃の出来事らしい。出火場所も『玉葉』では「五条坊門万里小路」、『山槐記』では「高辻北万里小路西」となっていてほぼ同じ地点だ。定家らが住まう五条京極邸はそこから乾の方角(北西)にあたる。延焼地域も『山槐記』によれば「北至于綾小路、東指巽出京極、南至五条北」とあり、五条京極邸はまさしく火中にあったことが窺える。ちなみに『明月記』同月十八日条には五条京極で再び火災があったことが記されている。
 成実の板屋に到着後、俊成と交流のあった歌人・頼輔が慰問に訪れているが、当時の頼輔邸は四条にあって類焼は免れたものの近場で難にあった俊成を見舞ったのだろう。『玉葉』を読むと九条兼実も使いの者を発して慰問している。ある種、社交辞令のようなものだったのだろうか?

<参考>治承四年二月十四日の焼失範囲


歴史雑談録~平安京条坊図 + Google Map~より借用)

 

(五月)廿三日、天陰、自今日、移坐法性寺、華亭広博、適慰心緒、亭主坐東方、

[訓読]
廿三日、天陰。今日より法性寺に移り坐す。華亭広博にして、心緒を慰むに適ふ。亭主東の方に坐す。

[意訳]
二十三日、曇り。今日から父は法性寺の邸に移り住まわれた。立派で広々とした邸で心が慰められる。邸の亭主はこの境内の東側に住まわれている。

[注釈]
・法性寺:藤原忠平建立の氏寺のひとつ。現在の東福寺周辺にあったとされる。
・亭主:定家の外祖母・藤原親忠妻で、当時は法性寺の境内に住んでいた。
 

メモ


 さて二月十四日に焼け出された定家たちは成実邸へ避難することとなったが、記述のとおり定家自身は不満タラタラだった。これ以降も、避難場所や仮屋あるいは一夜の仮宿などに対し、定家は『明月記』のなかでことあるごとに不平不満を漏らしている。しかも枚挙にいとまがない。実際問題、自分の立場がわかっているのだろうか? と疑いたくなる頻度で現れる。ま、定家ってそういう人なんだから仕方がないのだけれど。
 しかし今回は俊成もまたなんらか不満を持っていたらしく、広く快適な居住空間を求めての移住だったようだ。ちなみに翌年には再び五条の地に邸を構える(『明月記』養和元年十一月十九日条)が、のち最愛の妻・加賀亡き後は三条へと移り住み(三条坊門邸)、そこが終の棲家となった。

 
 
 

高倉帝の譲位と安徳帝の即位

(二月)廿一日、自暁甚雨、申斜雨止、今日御譲位云々、博陸已下、自閑院、至于五条内裏、歩行云々、

[訓読]
廿一日、暁より甚雨。申斜め、雨止む。今日御譲位と云々。博陸已下、閑院より五条内裏に至る。歩行と云々。

[意訳]
二十一日、早朝より雨。申の刻すぎに止む。今日、高倉帝が御譲位したという。関白以下の人々は、高倉帝の閑院から安徳帝の五条の内裏まで徒歩で渡ったという。

[注釈]
・申:申の刻。午後四時頃、あるいは午後三時から五時にかけて。
・博陸:関白の意。当時の関白は藤原基通で、基実の子。正二位内大臣。
  

(四月)廿二日、天晴、《中略》今日御即位、紫宸殿儀云々、《以下略》

[訓読]
廿二日、天晴。《中略》今日御即位。紫宸殿の儀と云々。《以下略》

[意訳]
二十二日、晴。《中略》今日、紫宸殿で即位の礼が行われたという。《以下略》

[注釈]
・紫宸殿:内裏の正殿。現在では即位礼の儀場となっているが、当時の即位礼は大極殿で行われるのが常例だった。安元三年に大極殿が焼失して以降再建が果されておらず、兼実などの提言により紫宸殿で執り行われた。冷泉帝の先例による。
 

メモ


 自分の上司たる帝の譲位や即位に関しては、後年になっても基本的にあっさりとしか書き残していない。だが、後鳥羽院が譲位する際、土御門院に関する噂話を子細に記録している。そこらへん、ゴシップ好きの定家卿なのだ。今回の譲位から即位にかけては『玉葉』『吉記』『山槐記』に詳しい。書き手の性格というか、意識の違いなんだろうなぁ。

 
 
 

高倉院、安芸へ

(三月)十七日、己巳、安芸御幸延引之由聞之、所労之後、未出仕、

[訓読]
十七日、己巳。安芸御幸延引の由聞く。所労の後、いまだ出仕せず。

[意訳]
十七日、己巳。高倉院の安芸・厳島社への御幸は延期と聞いた。私は体調不良のためいまだに出仕していない。
 

(三月)十九日、辛未、自朝雨降、安芸御幸云々、〔上皇御冠直衣云々、侍臣日来衣冠、可被仰下布衣云々、中宮御時猶衣冠云々、〕

[訓読]
十九日、辛未。朝より雨降る。安芸御幸と云々〔上皇御冠直衣と云々。侍臣日ごろ衣冠、布衣と仰せ下さるべしと云々。中宮の御時なほ衣冠と云々。〕。

[意訳]
十九日、辛未。朝から雨。高倉院は安芸・厳島社へお出かけになったという。院は冠直衣を召されたそうだ。侍臣はこれまで衣冠姿でお仕えしていたが、「今度からは布衣にせよ」と院から仰せが下されたという。先日、中宮へ行啓の折、侍臣はまだ衣冠姿であったとのことだ。

[注釈]
・冠直衣:直衣は天皇以下公家の平服で、通常は烏帽子をかぶった。特別な許可を得た臣下が参内するときや、晴れのときなどあらたまった場においては烏帽子ではなく冠をかぶった。
・衣冠:公家官人の宮中での正装。
・布衣:平服の意で、ここでは狩衣をさす。
・中宮:高倉院の皇后・平徳子。ここでの"御時"は三月四日の土御門殿行啓をさす。
 

メモ


 高倉院の安芸御幸だが、これは異例中の異例のこと。譲位後、賀茂社や熊野などへ御幸する例は数多くあれど、当時としては地の海の果てである安芸国まで上皇が御幸する例はほかにない。これは平清盛による半ば強引な勧めによって実現したもので、清盛専制の象徴ともいう出来事だ。十七日条で一度延引となったが、『山槐記』によれば、園城寺などの衆徒が後白河法皇奪還を企てているという噂話があって、それを警戒しての措置だった。
 十九日出発した高倉院一行は福原での清盛の歓迎を受けるなどしながら、海路で二十六日に厳島社へ到着している。帰京は4月9日である。この旅路については源通親『高倉院厳島御幸記』に詳しい。通親といえば後に後鳥羽院の乳父として宮中で暗躍した人物。だが類まれなる筆才の持ち主であり、この『御幸記』も名文名高い作品だ。
 さて、後半部の服装について。これは個人的なイメージで恐縮だが、それまでスーツにネクタイという堅苦しい服装だった霞が関の官僚が、クールビズよろしくカジュアルな服装にネクタイ姿で勤務しているような感じだろうか。譲位後に上皇が「烏帽子始」を終えると、侍臣も烏帽子・布衣姿での参院が可能となる。高倉院は三月四日に烏帽子始を行っているが、その時はまだ布衣の仰せが下されていなかったことが『山槐記』にみえる。

 
 
 

臨時祭で起こったハプニング

(五月)七日、天晴、臨時祭還立舞人、盛定之外一人不参、通資朝臣〔雲客〕召籠、長房ヽヽ、両侍従、基範等恐戄云々〔但公守朝臣、依被優英華、参入由有披露云々〕、蔵人佐光長、以書状仰此由、

[訓読]
七日、天晴。臨時祭還立の舞人、盛定のほか一人も参らず。通資朝臣〔雲客〕召籠、長房朝臣・両侍従・基範等、恐戄と云々〔但し公守朝臣、英華優らるるにより参入の由披露ありと云々〕、蔵人佐光長、書状を以ってこの由を仰す。

[意訳]
七日、晴。先日の臨時祭後の宴席の舞人が、盛定以外一人も参上しなかった。殿上人である通資朝臣は召籠に、長房朝臣と両侍従、基範などは恐懼に処されたという。ただし公守朝臣だけは英華の家柄のため優遇されて、還立に参加したということで喧伝されたという。蔵人佐光長が、書状でこのことを仰せになった。

[注釈]
・臨時祭:石清水八幡宮で毎年三月の午の日におこなう祭り。
・還立:賀茂および石清水祭に遣わされた奉幣使が、任務後に宮中で歌舞の遊びをする賜宴。
・盛定:藤原季家の子。正五位下右兵衛権佐。
・通資:源雅通の子。正四位下左少将。
・雲客:殿上人。特に昇殿を許された四位・五位および六位の蔵人。
・召籠:職務上の怠慢や失錯がある侍臣・官人を殿上口や近衛陣に監禁する刑罰。
・長房:藤原俊盛の子。従四位上右馬頭。
・両侍従:藤原成家と藤原実保。成家は定家同母兄、正五位下。実保は藤原公保の子、正五位下。
・基範:藤原成範の子。正五位下。
・恐懼:朝廷からの叱責による出仕停止・謹慎の処分。
・公守:藤原実定の子。従四位下左少将。
・英華:公家の中で特に家柄が良いものをさす。公守の出である徳大寺家は清華家のひとつ。
・光長:藤原光房の子。正五位下蔵人左衛門権佐。近衛基通の家司。
 

(五月)十三日、召籠人通資朝臣、親家等、被免云々、

[訓読]
十三日。召籠の人、通資朝臣・親家等、免ぜらると云々。

[意訳]
十三日。召籠となっていた通資朝臣や親家などが許されたという。

[注釈]
・親家:高階為清の子。正六位上蔵人右近将監。
 

メモ


 この時の臨時祭は四月二十七日に行われた石清水臨時祭である。本来なら翌日に奉幣使は清涼殿に出仕し求子舞を披露するのだが、その当日、十人の舞人のうち盛定と信政(源雅行の子。正六位上左兵衛尉)、早退の公守だけが参じた。『山槐記』には帰参以降の様子が詳細されており、また『吉記』では不参の舞人の怠慢を手厳しく指摘している。その中でも殿上人である通資などが召籠になっているのは妥当な処分だろう。
 召籠に関しては注釈のとおり、監禁のうえ公の行事にも出席できないというなかなかの処分だが、打たれ弱い印象のお公家様はこのときどんな表情をしたものか? ちなみに後鳥羽院時代、たびたび”召籠”のことが記されている。後鳥羽院のことだから、嬉々として命じていたのかもしれない。でもそう考えると、後年ほぼヒステリックな理由から定家を院勘蟄居させたことのなどは、かなり手ぬるい感じが否めないのは気のせいだろうか? もちろん院勘蟄居だってかなりの処分だけど。

 
 
 

以仁王の最期

(五月)十六日、丁卯、九炊、今朝伝聞、三条宮配流事、日来云々、夜前、検非違使相具軍兵、囲彼第〔賜源氏之姓、其名以光云々〕、先是主人逃去〔不知其所〕、同宿前斎宮〔亮子内親王〕、又逃出給、如漢主出成皐与滕公共車歟、巷説云、源氏入園城寺、衆徒等搥鐘催兵云々、平中納言頼盛卿、参八条院、捜検御所中、申請彼孫王、依遅々、及捜求云々、良久孫王遂出給、重美〔称越中大夫〕一人相随、但納言相具向白河、宮出家云々、一昨日、法皇、自鳥羽、渡御八条坊門烏丸〔八条院旧御所云々〕、

[訓読]
十六日 丁卯。九坎。今朝伝へ聞く、三条宮配流の事、日ごろと云々。夜前、検非違使軍兵を相具し、かの第を囲む〔源氏の姓を賜る。その名以光と云々〕。是より先、主人逃げ去る〔その所を知らず〕。同宿前斎宮〔亮子内親王〕、又逃げ出で給ふ。漢主、成皐出づるに滕公と車を共にするがごときか。巷説に云ふ、源氏園城寺に入る。衆徒等鐘を搥ち兵を催すと云々。平中納言頼盛卿、八条院に参り、御所の中を捜し検ぶ。かの孫王を申し請ふに、遅々たるにより、捜し求むるに及ぶと云々。やや久しくして孫王遂に出で給ふ。重美〔越中大夫と称す〕一人相随ふ。ただし納言相具して白河に向かい、宮出家すと云々。一昨日、法皇、鳥羽より八条坊門烏丸に渡りおはします〔八条院旧御所と云々〕。

[意訳]
十六日 丁卯。九坎。今朝、三条宮配流の事を伝え聞いたが、最近いろんな噂を耳にする。昨晩、検非違使が軍兵をひきつれてその屋敷を包囲した。三条宮は源氏の姓を与えられ、その名は以光というそうだ。だがこれ以前に宮は逃げ去っていて、行方は分からない。同宿の前斎宮亮子内親王もまたお逃げになられた。「漢主出成皐与滕公共車」の故事のごとくか。巷の噂では三条宮は園城寺に入り、衆徒たちは鐘を打ち鳴らして軍兵を集めているという。平中納言頼盛卿は八条院のもとへと参じ、御所の中を探し回った。三条宮の子息である孫王の引き渡しを要求したが、なかなか出てこなかったので捜索におよんだという。しばらくしてついに孫王がお出ましになられた。越中大夫と称する重美一人だけが付き従った。ただし頼盛卿が白河へと連れて行き、孫王はそこで出家したという。一昨日、後白河院は鳥羽より八条院のかつての御所・八条坊門烏丸へお渡りになったという。

[注釈]
・九坎:陰陽道における忌日。
・三条宮:以仁王。後白河院の子、母は藤原季成女(高倉三位)。
・前斎宮:亮子内親王。のちの殷富門院。後白河院皇女、以仁王の同母姉。
・漢主出成皐与滕公共車:『史記』にみられる故事。項羽に敗れた劉邦が、側近の夏侯嬰(滕公)とともに成皐城を脱出した逸話をさす。
・平中納言頼盛:平忠盛の子。正三位。
・八条院:暲子内親王。鳥羽院皇女、母は美福門院得子。以仁王は猶子。
・孫王:道尊あるいは道性とも。
・重美:藤原顕成の子。従五位下。
 

メモ


 元暦二年(一一八五)の壇ノ浦・平氏滅亡へとつながる全国的動乱「治承・寿永の乱」、その嚆矢となったのが言わずと知れた「以仁王の乱」である。この挙兵計画の発覚と以仁王の配流が決定したのは前日十五日のことだった。すぐに捕縛の検非違使が派遣されたが、王はすでに逃走していた。このとき派遣された検非違使は源兼綱と源光長の二人だったが、兼綱は件の挙兵計画の首謀者の一人である源頼政の甥にして養子である。
 さて、以仁王を猶子としていた八条院のもとにも捜査の手が及んでいたことがこの日の記述から読み取れるが、それ以上に以仁王挙兵計画には八条院周辺の人物も深く関わっていた。この背景に、八条院およびその広大な所領群を指摘する研究もある。また前年の政変によって鳥羽殿に幽閉されていた後白河院は、この日還京している。その本当の理由は詳らかではないが、政変前後からつづく不穏な情勢に備えて実行されたもののようだ。そして還京先である八条坊門烏丸だが、定家の記述からも分かる通りかつての八条院御所の一角である。そういえば、八条院は後白河院の異母妹にあたるな・・・。

 

(五月)廿六日、天陰、謀反之輩、引率三井寺悪徒、夜中過山科、赴南京、官軍追之、於宇治合戦、逐奔至于南京、賊徒多梟首、蔵人頭重衡朝臣、右少将維盛朝臣帰参、献俘云々、有夾名、

[訓読]
廿六日、天陰る。謀反の輩、三井寺の悪徒を引率し、夜中に山科を過ぎ、南京に赴く。官軍これを追ひ、宇治において合戦す。つひに奔りて南京に至り、賊徒多く梟首さる。蔵人頭重衡朝臣・右少将維盛朝臣、帰参して俘を献ずと云々。夾名あり。

[意訳]
二十六日、曇。謀反の輩が三井寺の悪僧たちを伴って、夜中のうちに山科を通って奈良へと向かった。官軍はこれを追って宇治で合戦し、奈良まで追撃し多くの賊の首を討ち取った。蔵人頭重衡朝臣と右少将維盛朝臣が帰参して捕虜を名簿と共に献じた。

[注釈]
・三井寺:園城寺のこと。衆徒が以仁王に与同した。
・南京:南都のこと。
・蔵人頭重衡:平清盛の子。正四位下。
・右少将維盛:平重盛の子。正四位下。
・夾名:捕虜の名簿。公名とも。
 

メモ


 『平家物語』でも有名な名シーン「橋合戦」当日の記録。この日、大軍勢が追討に向かったことを『玉葉』や『山槐記』も記している。『明月記』ではすでに南都まで追撃したかのように記されているが、これは定家の事実誤認であることが指摘されている。実際には、平家の軍勢のうち先発隊三百騎が、宇治平等院で以仁王・頼政の軍勢に追いつき南都入りを阻んでいたようだ(『玉葉』同日条)。そして大将軍として追派遣された重衡・維盛は、南都に防御の暇を与えないようそのまま直進しようとしたが、維盛の乳母父・藤原忠清の諫めによって断念している(『山槐記』同日条)。結果宇治川で対峙していた両軍は26日合戦となり、わずか五十騎ばかりの以仁王・頼政軍は奮闘虚しく全滅した。以仁王は平等院を辛くも脱出したが、光明山の鳥居の前で誅されたことが『吾妻鏡』にみえる。

 
 
 

(五月)廿九日、夜雨止、朝天晴、従四位上清宗朝臣、叙従三位、自余勧賞等云々、依昨日催、着衣冠、参院〔百座仁王講堂童子〕、人々密語猶不止、於事嗷々、頼輔朝臣参入、只見仁王会咒願、握翫其文章、事了退出、宿七条坊門、

[訓読]
廿九日、夜雨止み、朝天晴。従四位上清宗朝臣、従三位に叙す。自余、勧賞などと云々。昨日催しにより、衣冠を着して院に参ず〔百座仁王講の堂童子〕。人々の密語なほ止まず、事において嗷々。頼輔朝臣参入し、ただ仁王会の咒願を見、その文章を握翫す。事了りて退出、七条坊門に宿す。

[意訳]
二十九日、夜中に雨がやみ、朝晴れる。従四位上の清宗朝臣が従三位に叙された。そのほかの人々にも追討の勧賞などあったという。昨日の召しにより衣冠姿で院に参じた。百座仁王講の堂童子を勤めるためだ。院中は憶測や噂話が飛び交い、騒然としていた。頼輔朝臣が参入してきて、仁王会の咒願文を熟読玩味していた。仁王会が終わって退出し、この日は七条坊門に泊まった。

[注釈]
・百座仁王講:鎮護国家祈禱し『仁王般若経』を講読する法会。
・堂童子:宮中での重要な法要の際、諸事雑用を行う役。主に花籠(けこ)を配ったり探題の迎えの使者などを務めた。蔵人および五位以上の公家の子弟から選出された。
・咒願:法会の功徳と祈願成就を願うこと、またその文章。
・握翫:味わい読み耽ること。
・七条坊門:定家の同母姉・龍寿御前の邸。龍寿御前は式子内親王に仕えていたことから、前斎院大納言・大炊御門大納言とも呼ばれる。
 

メモ


 以仁王追討の噂話は、数日経っても宮中を賑わせていたようだ。追討で功績があった者には叙位昇進があり、また乱平定のために仁王講が催されたことが窺える。そんな中、藤原頼輔がふらっと現れ咒願文を耽読している。先に俊成が火事にあった際にも慰問に訪れていたりと御子左家と親交が深い人物だが、一方で宮中においてはかなりの変わり者として見られていたらしいことが『玉葉』などから窺える。たしかに騒然としたなかで一人経文を読み耽っているというのは、個性的というか異様というか・・・。
 ところでこの日、定家は同母姉・龍寿御前の邸である七条坊門に泊まっている。この姉弟は兄弟姉妹中でも仲が良く、定家とはしばしば行き来している。しかし性格はというと丸っきり正反対だったようで、龍寿御前は聡明利発で機転のよく利く才女と見え、出仕していた式子内親王からの信頼も殊のほか篤い人徳を兼ね備えていた。定家の兄弟姉妹中、この龍寿御前とさらに上の同母姉・健御前は『明月記』によく登場する。この二人の姉と定家とのやりとりだけをピックアップしてみるのも面白いかもしれない。ちなみに健御前は建春門院や八条院に仕えた女房で、回想録『たまきはる』は当時の宮中や女房の生活を記した貴重な資料のひとつである。

 
 
 

遷都の噂

(五月)卅日、天晴、早旦、着布衣、参院、帥参候、上下奔走周章、女房或悲泣之気色、密招右馬允盛弘〔若州之後見〕、問子細、答云、俄有遷都之聞、両院、主上忽可臨幸由、入道殿申給、前途又不知安否、悲泣之外無他事云々、退出、帰法性寺、

[訓読]
卅日、天晴。早旦、布衣を着し院に参ず。帥参候す。上下奔走周章し、女房或いは悲泣の気色あり。密かに右馬允盛弘を招き〔若州の後見〕、子細を問ふ。答へて云ふ、にはかに遷都の聞えあり。両院・主上、たちまちに臨幸あるべき由、入道殿申し給ふと。前途又安否を知らず、悲泣のほか他事無しと云々。退出し法性寺に帰る。

[意訳]
三十日、晴。早朝、布衣を着て院に参ず。帥が参候していた。院中は人々が上から下へと大騒ぎしていて、女房のなかには泣き悲しんでいる様子の者もいた。密かに若州の後見である右馬允を呼んで事情を聴いたところ、突然に遷都の知らせがあったと答えた。両院と主上はただちに新都へお移りになるべきだと、入道殿が申されたというのだ。いったいこの先どうなるものか見当もつかず、泣き悲しむばかりという。この日は退出後、法性寺の邸に帰った。

[注釈]
・帥:藤原隆季。藤原家成の子、正二位権大納言。高倉院の執事別当。
・右馬允盛弘:若狭局の執事か?
・若州:若狭局・平政子。建春門院の乳母で高倉院女房。丹後局(高階栄子)の母。
・両院:後白河院と高倉院をさす。
・主上:安徳帝をさす。
・入道殿:平清盛をさす。
 

メモ


 このころ各地で源氏が蜂起し、また先日の以仁王の一件もあって、世上は大いに動揺していた。乱の事後処理のために入京していた清盛は、そうした世上を鑑みて体制の立て直しと諸事対応のため強行的に遷都をすすめようとしたと考えられている。だがよく知られるように、この強行突破は数年後に起こる悲劇へのプレリュードでもある。この突然の遷都の知らせの動揺は計り知れない。

 
 ■
 

参考文献

『翻刻明月記』冷泉家時雨亭文庫,1993
・『明月記』国書刊行会,1911
・今川文雄『訓読明月記』河出書房新社,1985
・九条兼実『玉葉』国書刊行会,1906
・藤原経房『吉記』(史料大成22・23)内外書籍,1935
・中山忠親『山槐記』(増補史料大成26~28),臨川書店,1965
・『吾妻鏡(北条本)』(新訂増補国史大系)吉川弘文館,1968
・『吾妻鏡(吉川本)』国書刊行会,1915
・『明月記研究』1~14号,1996~2016
・明月記研究会『明月記研究堤要』八木書店,2006
・辻彦三郎『藤原定家明月記の研究』吉川弘文館,1977
村上修一『藤原定家』(人物叢書95)吉川弘文館,1962
五味文彦『藤原定家の時代 中世文化の空間』岩波書店,1991
久保田淳『藤原定家とその時代』岩波書店,1994
村井康彦『藤原定家「明月記」の世界』岩波書店,2020
堀田善衛『明月記私抄 正・続』筑摩書房,1996
 
 などなど……。

-後鳥羽院project
-, ,