藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 その7 承久元年~嘉禎元年・その後(第2・3巻)

 
 
 後鳥羽院像に迫るための資料
 (甚之助蔵 『大日本史料』第4輯、東京大学史料編纂所、昭和43年)

  ・その1 建久3年~建仁元年(第1巻)
  ・その2 建仁2年~元久元年(第1巻)
  ・その3 元久2年~建永元年(第1巻)
  ・その4 承元元年~承元2年(第2巻)
  ・その5 建暦元年~建暦2年(第2巻)
  ・その6 建保元年~建保6年(第2巻)
  ・その7 承久元年~嘉禎元年・その後(第2・3巻)

目次

    ●藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 その7 承久元年~嘉禎元年・その後(第2・3巻)
     承久年間 欠
     貞応年間 欠
     元仁元年 欠
     嘉禄年間
     安貞年間
     寛喜年間
     貞永元年
     天福元年
     文暦元年
     嘉禎元年
     その後……
     
     主な参考文献

 
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 後鳥羽院とその時代
 

承久年間 欠

 1219~1221年
 後鳥羽院 39~41歳
 藤原定家 57~59歳

 ※正確には承久元年閏2月の2日・23日条が現存している。
承久元年
1月27日 源実朝、公暁に暗殺される(『吾妻鏡』)
閏2月4日 幕府の使者が上京し、朝廷に皇族将軍奏請(『吾妻鏡』)
3月9日 藤原忠綱を鎌倉に遣わし実朝の薨去を弔問(『吾妻鏡』『承久記』)
4月12日 承久と改元(『百錬抄』)
6月3日 幕府の請を受け、左大臣・藤原道家の子・三寅(頼経)を下向させる(『吾妻鏡』)
7月13日 兵をして源頼茂を討たせる(『百錬抄』『愚管抄』)
 23日 内裏百番歌合(『順徳院御集』)
 ※この年、順徳院『禁秘抄』起筆

承久2年
2月13日 内裏歌会。定家の詠進した歌が院の逆鱗に触れ院勘蟄居を蒙る(『順徳院御集』)
3月5日 熊野に御幸(27度目)(『玉蘂』)
4月2日 3月13日、禁中にて密々の賭弓習礼の際、天皇代を立てたことにつき道家を咎む(『玉蘂』)
 14日 源頼家の子・禅暁、京で誅殺される(『仁和寺日次記』『承久記』)
8月 土御門院、密々に定家をして和歌を詠進させる(『拾遺愚草』)
   道助法親王、定家に和歌十首を詠進させる(『拾遺愚草』)
11月5日 東宮(懐成親王)御着袴ノ儀(『玉蘂』)
 ※この年、慈円『愚管抄』成立か?

承久3年
1月27日 城南寺で笠懸(『玉蘂』)
2月4日 熊野に御幸(28度目 最後)(『玉蘂』)
3月8日 定家、順徳より密かに三首を召される(『拾遺愚草』)
4月20日 順徳譲位、仲恭天皇践祚(『百錬抄』)
5月3日 惟明親王、薨去(『皇帝紀抄』)
 以下、ご存知!
 15日 義時追討の院宣を下す(『吾妻鏡』『承久記』)
 19日 鎌倉に上皇挙兵の報入る。北条政子、御家人を説得する(『吾妻鏡』)
6月5日 美濃国大井戸にて京方敗走(『吾妻鏡』)
  8日 三上皇、比叡山ついで梶井御所に移御。天皇も同署へ移御(『百錬抄』『吾妻鏡』)
  9日 延暦寺衆徒、院の防御依頼を断る(『吾妻鏡』)
 15日 幕府軍入洛。義時追討宣旨を撤回(『吾妻鏡』『百錬抄』)
7月1日 首謀の公卿を断罪。翌日、西面衆を死罪(『吾妻鏡』)
 6日 院、鳥羽殿に移る(『承久記』)
 8日 院出家。定家の甥・藤原信実、院の肖像を描く(『吾妻鏡』『承久記』)
    後高倉院、院政を始める(『神皇正統記』)
  9日 仲恭天皇、廃帝。後堀河天皇、践祚。
 13日 院、鳥羽殿出発(『百錬抄』)
 21日 順徳を佐渡に遷す(『百錬抄』)
7月24日 雅成親王(六条宮)を但馬国に遷す(『百錬抄』)
 25日 頼仁親王(冷泉宮)を備前国に遷す(『百錬抄』)
 27日 院、出雲国大浜湊に到着(『吾妻鏡』)
8月25日 院、隠岐到着(『吾妻鏡』)
閏10月10日 土御門を土佐に遷す(『吾妻鏡』)
 ※この年、『禁秘抄』『八雲御抄』成立

貞応年間 欠

 1222~1223年
 後鳥羽院 43~44歳
 藤原定家 61~62歳

貞応元年
3月25日 順徳中宮・立子の院号を定め、東一条院と成す(『公卿補任』)
4月13日 貞応と改元(『承久三年四年日次記』)
6月5日 土御門皇子・尊守法親王、妙法院の尊性法親王に入室される(『承久三年四年日次記』)
8月15日 土御門、三首御和歌(『土御門御集』)
12月2日 土御門、ニ十首御和歌(『土御門御集』)

貞応2年
2月10日 土御門、五十首御和歌(『土御門御集』)
 ※この月、道元ら渡宋(『正法眼蔵』)
5月14日 後高倉院、崩御(『百錬抄』)
 ※この月、土御門を土佐から阿波に遷す(『吾妻鏡』)
8月 『為家千首』成立
 ※この年、『六代勝事記』『海道記』成立

元仁元年 欠

 1224年
 後鳥羽院 45歳
 藤原定家 63歳

1月 親鸞、浄土真宗を開宗(『教行信証』)
4月 為家の子・為定(後の源承)産まれる
6月13日 北条義時、没(『吾妻鏡』)
 28日 北条泰時・時房、幕府後見(執権・連署)となる(『吾妻鏡』)
11月20日 元仁と改元(『公卿補任』『百錬抄』)

嘉禄年間

 1225~6年
 後鳥羽院 46~47歳
 藤原定家 64~65歳

嘉禄元年
2月
18日≪前院≫ 「前院ノ御時、仰セニ依リ法用ノ時、諸宗ノ僧皆立ツ。今年、山僧等相議シ、又立タズト云々」
 ※16日、定家、昨年11月よりはじめた『源氏物語』書写、昨日終わる
3月
9日≪法皇≫ 「定範法印東大寺東南院門跡、仁和寺宮御沙汰トナスベキ由、法皇御在世ノ時、証文ヲ進ゼ了ンヌト云々」

 ※4月20日、嘉禄と改元(『百錬抄』)

6月
28日    三上皇還御の巷説。幕府、三上皇二王の禁固を厳重にするよう重ねて下知
 ※10日、大江広元、没(『吾妻鏡』)

 ※7月11日、北条政子、没(『吾妻鏡』)
 ※9月25日、慈円、没(『門葉記』)

10月
17日    定家、三上皇還御の噂を聞く
18日≪仙洞≫ 高階家仲、定家邸に同宿する「是レ仙洞ノ昔、和歌ニ堪フルノ由、暫ク其ノ沙汰アル者ナリ」

11月
25日≪上皇≫ 為家の装束、蒔絵螺鈿の剣と同じ箙を用いて定家驚く「箙ノ事、予之ヲ知ラズ。剣箙同体タルベキ由、先年上皇仰スト云々」

12月
29日≪法皇≫ 道家の子・三寅、元服ノ儀、頼経と称す。院の御所を壊し改められる

嘉禄2年
 ※1月15日、院、隠岐行在所より承円に詔して念仏往生を問う(『法然上人絵図』)

3月
14日≪仙洞≫ 8日に杲云、没「元久ノ此、仙洞ヨリ召シ禁ゼラル」

 ※4月21日、後鳥羽院自歌合。家隆、これに加判する
 ※9月、雅成親王(六条宮)、但馬にて出家(10月11日条)

12月
18日≪法皇≫ 定家、安嘉門院に女房として仕える娘が禁色を許されたことを喜ぶ「先考籠居ノ人タリ。官途遂ニ沈淪スト雖モ、法皇事ニ於テ思シ食ス故存ルカ」

安貞年間

 1227~8年
 後鳥羽院 48~49歳
 藤原定家 66~67歳

安貞元年

 ※3月9日、鎌倉に謀反者あり。院三宮と称す。波多野経朝、これを逮捕す(『吾妻鏡』)

4月
8日    西御方、病気により藤原親兼の娘・民部卿局が先月22日京を出て隠岐に参ず(嘉禄元年9月24日という説あり)
24日≪上皇≫ 「世上ノ獲麟、只除目僧事ノ面カ。上皇御在世一度ノ僧事、律師十八人、世勝事トナス。奈何」

7日
9日≪上皇≫ 藤原定輔、没「上皇御在世ノ時ヨリ、ホシイマスニ相撲ノ事ヲ管領」この後、定家の悪口あり

10月
10日≪上皇≫ 「平相公伊賀国ノ所領、両上皇ノ御時各々宣旨ヲ下サレテ知行」

11月
5日 賀茂権禰宜・資通、没

安貞2年 欠
9月16日 七条院(藤原殖子)崩御(『百錬抄』『吾妻鏡』)

寛喜年間

 1229~1231年
 後鳥羽院 50~52歳
 藤原定家 68~70歳

寛喜元年
 ※3月5日、寛喜と改元(『百錬抄』)
6月
17日    西御方、ご病気により帰京と云々

7月
21日≪前上皇≫ 法眼信定(本信光法師)について「(盗犯や虚言により)其ノ心操ヲ聞シ召シ、新古今ノ時、作者ニ入レラレズ」
27日≪上皇≫ 宮人の中美濃(元廻雪)、没

8月
16日    藤原兼子、薨去
 ※17日、督典侍、病気により佐渡から帰京
19日≪上皇≫ 西御方、帰京の噂

10月
6日≪法皇≫ 承久3年の除目に関する後高倉院の約束について
19日≪院≫ 文治年間に院に申し壊れた貞信公(藤原忠平)の御車、先年焼失

11月
7日≪前院≫ 屏風歌清書のこと、院の時は藤原伊経が書く

12月
28日≪上皇≫ 藤原隆仲、出家「上皇御在位ノ時ヨリ昇殿ノ近習」

寛喜2年
閏1月
5日≪前院≫ 定家、宰相聞書について、弁官にあらざる近将二人が並ぶことを不審に思う「蔵人補任ヲ引カル(中略)前院ノ御時定経」

4月
21日≪上皇≫ 参内の装束について
「承久ノ此、範基四月ニ冬ノ衣冠ニテ参ズ。勅定シ即チ着シ改メラル(上皇仰セ出サレ、更ニ御忘却ナシ)建久七年、宗隆冬ノ直衣ヲ着シテ参内(親能見テ之ヲ追ヒ出ス)」

 ※6月、定家、道家が百首歌を計画するが自らが作者から外されたことを喜ぶ

寛喜3年
1月
25日 定家、家長が院帰京の巷説を悦ぶことを訝しがる
 ※2月12日、後堀河の皇子・秀仁(四条天皇)産まれる(『百錬抄』『民経記』)
  4月11日、秀仁、親王と成る(『百錬抄』『民経記』)
  10月11日、土御門院、崩御(『百錬抄』『吾妻鏡』)
    28日、秀仁親王、立太子(『百錬抄』『民経記』)

貞永元年

 1232年
 後鳥羽院 53歳
 藤原定家 71歳

 この年、『明月記』は6月13日・10月2日条のみ現存
4月2日 貞永と改元。定家、改元定に列席
6月13日 定家、『新勅撰和歌集』の撰進の下命を受ける
 ※8月10日、『貞永式目』成立(『吾妻鏡』)
 ※10月4日、後堀河天皇譲位、四条天皇践祚

天福元年

 1233年
 後鳥羽院 54歳
 藤原定家 72歳

 ※4月15日、天福と改元(『百錬抄』)

7月
28日 昨日、定家、院が家隆に三十六人の和歌を詠進させることを聞く「家隆卿、卅六人ヲ撰スト云々。是レ遠所ノ勘ヘ定ムルカ。金吾ノ歌ヲ尋ヌト云々」為家の歌も入れたい由

8月
7日 定家、藤原知家より聞く「前宮内(家隆)、歌卅首許リ書キ送ルベキノ由。頻リニ譴責ス」
12日 家長による巷説「(九条基家あるいは家隆が三十六人の歌を)其ノ真影ヲ書カシメ(<藤原>信実)、隠岐ニ進ラセラルルカ。其ノ事又取捨ノ沙汰アリ(中略)是レ皆、之ヲ推ス許リナリ」
15日 督典侍から順徳が勅撰集のことを耳にされたことを聞く
「佐渡、勅撰ノ由ヲ聞コシ食シ『若シ彼ノ御製ヲ載セ奉ラバ、相構ヘテ計略ヲ止メズ、示シ合スベキ由』御気色アリト云々。尤モ然ルベキ事ナリ」

 ※10月11日、定家、出家。”明静”と称す

12月
27日≪遠所≫ 家長、定家に伝える
「遠所出家ノ由ヲ聞キ、頗ル驚キニ仰セラル。其ノ志有リト雖モ、忽チ許サルルノ条如何ノ由、密々ニ仰セ有リト云々。極メテ以テ存外ノ事カ」

文暦元年

 1234年
 後鳥羽院 55歳
 藤原定家 73歳

3月
12日 定家、新勅撰和歌集20巻を”蒔絵ノ筥”に入れ、草本添えで道家に提出
 ※文暦2(嘉禎元)年同月同日に同文あり

5月
日欠 「密々二御製五首ヲ下シ給フ(内外ニ付ケ、三ヵ年懇望ス)。欣ビニ感ズルノ間、廿巻ノ草案片時ニ進入スベシ。御一見ノ後即チ返下サルベキノ由仰セラル」

8月
6日 後堀河院、崩御
7日 「辰ノ時許リニ勅撰ノ愚草廿巻、南庭ニ縿リ置キ之ヲ焼ク。已ニ灰燼トナス。勅ヲ奉リテ未ダ巻軸ヲ調ヘザル以前ニ、此ノ如キ事ニ逢フ。更ニ前蹤ナシ。冥助ナリ機縁ナキノ条、已ニ以テ露顕ス。従ラニ誹謗罵辱ヲ蒙ルベシ置キテ詮無キ者ナリ」

 ※11月5日、文暦と改元(『百錬抄』)
 ※11月9日 定家、道家・教実の”監臨”のもと、新勅撰和歌集から百首を切り捨て(一説に三上皇の御製)新たな歌を入れる(『百錬抄』)
  →この一件について、後年、俊成女は定家を痛烈に批判する(『越部禅尼消息』)

嘉禎元年

 1235年
 後鳥羽院 56歳
 藤原定家 74歳

2月
28日 新勅撰和歌集・上帳、行能の清書によって成る

3月
12日 新勅撰和歌集・下帳、成る

4月
6日 定家、巷説にて院・順徳の帰京許可が下ることを伝え聞く

5月
14日 幕府、院・順徳帰京拒否の報
27日 定家、宇都宮頼綱の依頼により、中院山荘障子色紙形に古来の歌人の和歌を一人一首ずつ計100人分書き送る
 →小倉百人一首の原型

12月
30日 明月記、終わる

その後……

嘉禎2年 1236年
 後鳥羽院 57歳
 藤原定家 75歳

7月 院、隠岐にて遠島歌合を行わせる(『遠島御歌合』)

嘉禎3年 1237年
 後鳥羽院 58歳
 藤原定家 76歳

8月25日 置文を記す(『後鳥羽法皇置文案』)
夏、 藤原秀能(如願)に十首和歌を詠進させる(『如願法師集』)
秋、順徳の歌に加点す(『順徳院御百首』)
10月、定家、順徳の歌に加点・加判す(『順徳院御百首』)

歴仁元年 1238年
 後鳥羽院 59歳
 藤原定家 77歳

 この年、定家『僻案抄』を順徳に送る
 為家、後鳥羽院下野勧進観無量寿経十六想観和歌、詠進す

延応元年 1239年
 後鳥羽院 60歳
 藤原定家 78歳

2月9日 御手印置文を水無瀬親成に送る(『水無瀬宮文書』)
 10日 書状を水無瀬信成に送る(『三条西家文書』)
 22日 後鳥羽院、崩御(『吾妻鏡』『百錬抄』)
5月29日 「顕徳院」の諡号を贈られる(『百錬抄』)

仁治元年 1240年
 藤原定家 79歳
 この年、慈光寺本『承久記』成立か?

仁治2年 1241年
 藤原定家 80歳
2月8日 院の遺骨を大原西林院より法華堂に移す(『一代要記』)
8月20日 藤原定家、没

仁治3年 1242年
7月8日 諡号を改め「後鳥羽院」と追号(『百錬抄』)
9月12日 順徳院、崩御(『百錬抄』『平戸記』)

寛天元年 1243年
4月28日 源康光、順徳の遺骨を奉持し、大原法華堂の陵側に納骨(『百錬抄』)

宝治元年 1247年
4月25日 院の怨霊を宥めんがため、鎌倉鶴岡山麓に勧請す(『吾妻鏡』)

明治6年 1873年
11月10日 明治政府、隠岐山陵にて神霊奉遷式を行い、木像等を水無瀬神宮に移す(『村上略記』)

明治7年 1872年
4月25日 鳥取県は村上祐九郎に山陵祠殿の取り壊しを通達。同年、通達を受け取り壊しを行った際、本殿跡地より土甕が発見される(『海士町史』)

昭和14年 1939年
4月 隠岐神社、創建。後鳥羽天皇七百年祭が執り行われる(『隠岐の後鳥羽院』)

令和3年 2021年
10月16日 隠岐神社にて遷幸八百年記念大祭が斎行される(隠岐後鳥羽院大賞さんのツイート‐Twitter←New!!

 藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 ≪終≫
 
 

主な参考文献

底本
藤原定家『明月記』国書刊行会,1911

史料・日記関連
『大日本史料』(第4輯)東京大学史料編纂所,1968
『史料総覧』(第4巻)東京大学史料編纂所,1977
東京大学史料編纂所『讀史備要』講談社,1966
吉川弘文館編集部『日本史必携』吉川弘文館,2006
九条兼実『玉葉』国書刊行会,1906
九条道家『玉蘂』思文閣出版,1984
藤原家実『猪隈関白記』岩波書店,1987
藤原経房『吉記』(史料大成22・23)内外書籍,1935
『源家長日記』風間書房,1985
『伯家五代記』(続史料大成21)臨川書店,1967
『三長記』(増補史料大成31)臨川書店,1965
『仁和寺日次記』(続群書類従 第29輯下)続群書類従完成会,1989
龍粛訳注『吾妻鏡』岩波書店,2008
『百錬抄』(新訂増補国史大系)吉川弘文館,1983
『愚管抄』(日本古典文学大系86)岩波書店,1967
『承久記』(新撰日本古典文庫1)現代思潮社,1974
『宸記集』藝林社,1974
田邑二枝『海士町史』海士町役場,1974
 などなど……

研究書関連
堀田善衛『明月記私抄 正・続』筑摩書房,1996
明月記研究会『明月記研究堤要』八木書店,2006
今川文雄『新訂 明月記人名索引』河出書房新社,1985
辻彦三郎『藤原定家明月記の研究』吉川弘文館,1977
村上修一『藤原定家』(人物叢書95)吉川弘文館,1962
久保田淳『藤原定家とその時代』岩波書店,1994
神坂次郎『藤原定家の熊野御幸』角川書店,2006
村井康彦『藤原定家「明月記」の世界』岩波書店,2020
目崎徳衛『史伝 後鳥羽院』吉川弘文館,2001
谷昇『後鳥羽院政の儀礼と展開』思文閣出版,2010
長村祥知『中世公武関係と承久の乱』吉川弘文館,2015
田邑二枝『隠岐の後鳥羽院』後鳥羽院顕彰事業実行委員会,2010
鈴木彰・樋口州男『後鳥羽院のすべて』新人物往来社,2009
『鎌倉と京都』(人物・日本の歴史4)読売新聞社,1972
本郷恵子『院政 天皇と上皇の日本史』講談社,2019
渡邊大門『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史』講談社,2009
 などなど……


 

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