後鳥羽院を巡るフィールドワーク【大原御陵・水無瀬神宮・隠岐】


後鳥羽院 第二版

後鳥羽院 (コレクション日本歌人選)

目次

     プロローグ
     京都・大原御陵
     水無瀬神宮
     隠岐へ
     隠岐の後鳥羽院

プロローグ

 「中世のジャイアン」後鳥羽院。

 私の古くからの友人に通称・ママと呼ばれて(呼んで)いる人がいる。歳は私の倍もあるのだが、なぜかウマが合って今でも頻繁に連絡を取り合っている。
 なぜ”ママ”なのかというと、私と元嫁さんや他の古くからの友人たちが足しげく通っていた喫茶店のママだったからである。文字通り”ママ”なのだ。
 若い頃にはプロの三味線奏者として世に出ようとしていたようだが、紆余曲折あって、都内某所でご主人と喫茶店を開くこととなった。私たちはその店の最後の常連といったところだろうか。
 そんなママは、私と元嫁とが二人で通いだした頃、『平家物語』にドはまりしていた。曰く「この歳になって、なんとまあこんな楽しみができて……」と、その後も『平治物語』『吾妻鏡』はじめ、平安末から鎌倉初期にかけての軍記物を次々と読破していった。……すでにお気づきの方もいるとは思うが、他でもない、ママをそこへのめりこませたのは私たち二人だ。正確なきっかけは元嫁だが。

 さて、そうこうしている間にママは次第にある人物に並々ならぬ注目をするようになった。第82代天皇・後鳥羽天皇(上皇)である(本稿では以降、後鳥羽院もしくは院と記す)。一体後鳥羽院の何に彼女は引き付けられたのか? 実家のある北海道に戻ってから、上京するたび店には顔を出してはいたものの、元嫁と二人で行っていた頃のように徹夜で話し込むようなことももちろんできず、なかなかその真を探ることはできなかった。
 そうこうしているうちに、私は鬱病で入院したり離婚したりとドタバタし続け、ママはママで店を畳んで東海地方のある街へ引っ越していった。店を畳むことに関しては、10余年前、「しっかり女房のグータラ亭主、太平楽のノンケのしゃあ」という落語に出てくる旦那衆そのままのご主人を病気で亡くされた頃から、なんとなくそんなことを考えていたらしかった。

 地理的に結構な距離感ができてしまったが、それでも私は上京するたび東海地方のある街までノコノコ出かけては、夜通しママと語らっては、傍の人が聞けばなんのことやらという事をあーでもないこーでもないと議論する習慣ができた。
 私自身、ママの店に通いはじめた頃、半分仕事半分趣味くらいの境目で、藤原定家・源実朝という歌人のことを考究していた。その縁もあって、後鳥羽単推しのママとも自然深い話しとなった。

 そんなある日、ママとの電話の最中で、ふと核心的なことに触れたようなやりとりがあった。そこで私は思わず、
 「ママ、ちょっと一緒に隠岐まで行きましょう。行って、後鳥羽が眺めた海を見ましょう」
 と提案したのが今回の旅のきっかけだった(大分前振りが長くなってしまった)。

 ……本家サイトをご閲覧の方は分かると思いますが、私も私でつまらん用事に手間取ってなかなかどうして時間に追われる身でして、上の提案から1年余が過ぎて、今夏やっと行けたということだけ白状しておこう。さらに、もともと私が案内役にと思っていたのに、ママは先に一人でぷらっと隠岐まで行ってしまい、結局私が案内される側になったという情けないエピソードも付け加えておこう。

 プロローグの最後に、本稿は、ママに提出したこの旅の紀行文を元にしています(もっとも私も専門外の分野、時代的には日本仏教史と大変関わり深いところなので全くの専門外とも言い切れませんが、学術的な価値云々はないにせよそちらは一応参考文献などつけ、大変まじめに書いています)。

京都・大原御陵

 台風一過のある日、京都駅で待ち合わせた足でそのまま向かったのが京都・大原在の後鳥羽天皇御廟。
 三千院の隣に位置するこの御陵には、院の運命を決定づけた承久の乱後に佐渡へ流された子息の順徳天皇もともに眠っている。

 
 三千院入口。いつ見ても重厚な感じ。

 
 三千院横の端を渡ってすぐ右手に御陵がある。

 
 屹立としている木々が荘厳な雰囲気をより一層醸し出している。

 
 御陵正面には京都盆地の端らしい山々が。

 
 こちらは法華堂。崩御後、当初は大原・西林院にその遺骨が納められたが後にこちらに移っている。

水無瀬神宮

 
 京都から大阪方面へ一路、大阪府島本町へ。
 こちらにある水無瀬神宮は、元々後鳥羽院がたびたび遊んだ水無瀬離宮の跡地の一角である。

 
 
 駅周辺は大都市近郊の住宅街という感じがする。
 山々も京都のそれと幾分趣を異にしている。

 
 住宅街をしばらく歩くと突然に荘厳な森が拡がっていた。

 
 山門には石川五右衛門が残したという手形が。

 
 社殿もどっしりと構えた風格漂う造り。
 水無瀬離宮自体はかなりの面積だったようで、この神社は当時の離宮のほんの端にすぎないらしい。
 近年でもその遺構が発見されたりしているとのこと。
 またこの水無瀬神宮は、江戸時代までは仏式だったが明治以降神式に改められた。しかし院を祀ることへの深さは変わりなく、隠岐配流後の院の世話をした隠岐在の村上家(後述)との音信も近年まで密々にあったという。

 
 行った頃には境内に風鈴が並んでいた。
 この神宮内に湧き出る水は『離宮の水』として名水百選にも選ばれている。

隠岐へ

 京都から新幹線で岡山へ。
 岡山から先の鉄路は夏の西日本豪雨で不通だったため、バスにて松江へ。
 すっ飛ばしましたけど、この間にも思い出深いエピソードがいろいろありましたw

 さて、松江から隠岐に渡るには境港と七類港との二つのフェリー乗り場があるが、今回は七類港より。
 後鳥羽院が隠岐に配流された際、この七類の先にある美保の波止場から船に乗ったらしい。

 

 
 雲がかかっていたが、明峰・大山ともここでしばしお別れ。

 
 ベンガラ屋根の家々が日に映えていた。

 
 遠くには隠岐の姿がぼんやりと……。

 
 フェリーでおよそ2時間。なんだかんだで隠岐到着。

 
 海、青ッ!!
 自分の知っている日本海の海とは違って衝撃的な色だった。
 やっぱり北海道で見る日本海とは全然違うということをこの歳で初めて知ったw
 
 さて、隠岐諸島中ノ島在の海士町に到着。
 
 玄関口にあたる菱浦港に隣接する『キンニャモニャセンター』にはこんな看板が。
 
 この海士町には過疎化・少子化・高齢化が深刻に進む中、いわゆる平成の地方財政ショックなどと相俟って、財政破綻寸前にまで陥った過去がある。
 そこを島民あげての様々な施策により再び活性化するととも、U・Iターン者の受け入れや島自体のブランド化など、地方再建のお手本のような事業を展開している。
  ※詳しくはこちらの本で
    ↓↓↓
   

 島のあちこちでその雰囲気を感じることができる。
 ちなみにこのセンターの『キンニャモニャ』とは隠岐の民謡「キンニャモニャ節」によるもので、「キン(金)もニャ(女)も大好きで、モニャ(文無し)」なお爺さんが謡っていたという説がある。
 毎年夏にはしゃもじを手に躍るキンニャモニャ祭りも開催されている。
 


 (約12分)

 さて、ひとまず後鳥羽院から離れてちょっと海士町の街の中を散策。
 宿泊は島内唯一のホテル・マリンポート海士。
 ママ曰く「ここのロビーから見る海が最高なのよ……」と。
 
 確かにこの風景は見ごたえがあった。
 自分の中での隠岐のイメージそのままという感じ。

 隠岐は後鳥羽院や後醍醐天皇などの配流先として名高いが、観光などで島を訪れた著名人も多い。
 
 その中でも小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はその隠岐行を文章として残すほどに印象深く語っている。そして八雲と妻・セツの像が宿泊宿の跡地に残されており、今でも静かに港を眺めている。
 

 ここ菱浦は中ノ島の北西部に位置している。島内で一番平地が多いのは役場などがある中里地区の周辺で、ここ菱浦では住宅街のすぐ脇から屹立と山が聳えている。
 
 
 山の植生もパッと見ただけでも南国風の木々の姿が目に入る。
 
 色味が少し淡い感じがするが、ここでもベンガラ屋根の建物を多く目にする。

隠岐の後鳥羽院

 では本題の後鳥羽院に戻るとしよう。
 まず向かったのが島の最南端近くにある三保(美穂)神社。
 
 この神社は、隠岐に渡ったその日に後鳥羽院が一夜を明かした神社だという。
 近くの海岸には島に降り立った院が座ったとされる石も残されている(時間の都合でそれは見に行けなかった。残念)。
 
 ちょうど午後の日盛りが社殿の後方から照らしていた。

 
 社殿の前方にはけもの道のような坂道が。院もここを登ってきたのだろうか?
 ちなみに最初の鳥居は神社裏手に位置する。
 
 三保神社麓の崎の港。写真右側が三保神社の杜。
 
 菱浦の賑わいとはうってかわって、実に閑静な住宅街で落ち着いていた。
 
 ベンガラの瓦が積まれていた。

 中ノ島は隠岐諸島で3番目に大きな島だが、それでも外周はおよそ90kmにおよぶ。
 今でこそ道路が整備されているが、それでも細い山道が続く。
 菱浦から神社へ向かうのに、ご夫婦でタクシー業を営むIさんに頼んでクルマを走らせてもらったが、クルマ同士すれ違うのもギリギリの山道。
 隠岐はもともと600万年前の火山活動によって形成された地で、この海士町のある中ノ島と西ノ島・知夫里島とのいわゆる島前諸島でカルデラ地形となっている。
 ユネスコ世界ジオパークの認定をうけているのだが、さすがの火山形成の山である。海面から急勾配でそそり立っている。
 
 菱浦への帰路、町営のバスを利用したのだが、山の中を抜けると時折海が見えた。
 
 なかなかの絶景。
 院が三保神社より行宮となる源福寺(中里地区)へは山道を歩んだようだが、その折々でこういう風景を眺めたのだろうか?
 島に残る古文書等ではこの時院が辿ったルートが大同小異様々に伝わっているようだが、今のところ決定的なものは定まっていないらしい。
 しかし先にクルマを頼んだIさんの御主人は、地元の研究会に加わり今でもそのルートの解明の調査などを行っているという。その熱意に正直頭が下がる。

 さて、このフィールドワークのクライマックスに向かったのが隠岐神社およびその周辺の文化財。
 
 
 緩やかな山道の脇にはアジサイが生えていた。
 
 
 社殿。手前左側は蹴鞠場となっている。若かりし頃の院は相当蹴鞠にハマっていたらしく、そのことを今にも伝えている。
 
 
 境内横の道を行く。

 
 そこにあるのが行在所跡。
 院が内宮と定めた源福寺は明治の廃仏毀釈の嵐の中、廃寺・解体を余儀なくされた。
 
 近くには当時から伝わるという井戸も残されている。

 
 院は隠岐配流後も盛んに和歌を詠んでおり、いたる所でその歌碑を見ることができる。
 この碑は「苅田の池の蛙」という逸話を伴って有名なもの。
  「蛙なく 苅田の池の夕たたみ
    聞かましものは 松風の音」
 この歌を詠んでから、池の蛙はぴたりと鳴くのをやめたという。
 また近くには明治以降にこの地を訪れた皇族の歌碑などもある。

 行在所の袂にあるのが火葬塚。
 
 延応元(1239)年2月22日に院は19年間の配流生活の末、隠岐で崩御した。
 近侍の士・藤原能茂がここで院を荼毘に伏せ、49日後その遺骨の一部を京都・大原の西林院に持ち帰ったとされている。

 この火葬塚には後年、明治期に入って一つの大きな出来事が起こる。
 明治6年、配流後に2度と京の地を踏むことを許されなかった後鳥羽・土御門・順徳三帝の「御無念」を晴らすため「神霊」の「還遷」が維新政府により行われた。
 その際、無用となった島の火葬塚を破却せよという命令も下され、それまで数百年間にわたって源福寺の山陵及び境内に残された遺跡を守ってきた島の豪族・村上助九郎もなくなくその命令に従いその破却を行ったのだが、そこで図らずも地中から3段に埋められた素焼きの瓶が見つかった。
 『海士町史』所載の『御瓶記』によると
 「衆皆恐懼して、敢へて手を下さず、(中略)第三の瓶は是を拝せず、(中略)蓋し此上部の瓶には御手近の御物を納め、中瓶には御火葬の灰を納め、最下に御遺骨を納め奉りしものなるべしと恐察せり。」
 とある。当事者たちの驚きようが直に伝わってくる。この件はただちに当時管轄であった鳥取県庁へ報告され、明治末に現在の御陵の形を整えた。
 小泉八雲はこの火葬塚について『日本瞥見記』の中で
 「すべて厳かに簡素であるが、それがかえって人の心を打つ」
 「(火葬塚は)どこまでも伸びていく文明の圧力からのがれている」
 と絶賛している。
 流離の貴種に対する島民の素朴で実直な人柄が生んだ感動、この火葬塚を前にしてその熱い思いに私も胸が潰されそうになった。
 

 
 さて、火葬塚のすぐ下には江戸時代初頭に隠岐配流となった飛鳥井少将雅賢の住居跡もある。
 この雅賢だが、近衛府の少将でありながらあまりにも遊蕩に耽ったことを咎められ隠岐に流されたという少々アホな人物なのだが、配流中も大分優雅な生活をしていたらしいw
 だが、和歌や蹴鞠の名門家に生まれただけあってその道では優れた才能の持ち主だったらしく、先述の村上家に蹴鞠を伝授したり、また私財を投じて後鳥羽山陵の修復をするなどしたという。

 
 
 隠岐神社入り口の他にも行在所跡・火葬塚への入り口もある。ここ一帯が今でも山陵として深く守られていることがわかる。

 
 隠岐神社の前にあるのが『海士町後鳥羽院資料館』
 ここには海士町のある中ノ島の古代からの資料を含め、後鳥羽院にまつわる資料が展示されている。
 館内はそれほど大きくないが、隠岐配流後の院の生活ぶりを感じるにはほどよい感じ。

 
 隠岐神社・資料館から少し歩くとあるのが村上家資料館。
 村上家は代々この隠岐の豪族として名を馳せた家で、居館・因屋城を中心に戦国時代には隠岐に進入した海賊などとも防戦した記録が残っている。
 江戸時代には”隠岐の長者”とも呼ばれ、豪商の全国番付にもその名前を見ることができる。
 また隠岐配流後の後鳥羽院への忠勤に励み、崩御の後には私費を投じて御陵の修復をしたり、その御霊を邸内に別室を設けてまで祀っていたという。
 水無瀬神宮を任される水無瀬家とは当時からも交流があったようだが、江戸時代、後鳥羽院600回忌を期にその頻度は増し、水無瀬家の代拝役として「家士格」いわゆる家来に取り立てられた由緒もある。
 この邸宅は明治・大正と、この地を訪れた皇太子殿下のご休憩所ともなったという。
 
 邸宅横には因屋城跡へと続く道がある。
 
 また裏手には井戸の跡。
 代々当主はこの井戸からくみ上げた清泉を院の御霊を祀る別室に供えていた。

 最後に、前出のIさんのクルマを再度頼み金光寺山へ。
 ここは平安初期、承和3年に隠岐に流された小野篁が暮らし所でもあり、後鳥羽院もたびたび遊んだ場所とのこと。島内で2番目に高い山でもある。
 
 
 院はここで2首歌を詠んでいる。
 「いざさらば ここを都とさだむべし
      松尾の山の あらんかぎりは」
 「賤の女が たてなし機をたておきて
      またみるも海 またみるも海」
  
 後鳥羽院は隠岐配流後も盛んに歌を詠んだ。
 それは『遠島百首』あるいは「遠島歌合」などにみることができるが、そのいずれにも殺伐とした絶望感を感じずにはいられない。

 いつぞやママが「隠岐に渡った後の院は、海を見るたび愕然としたのではないか」という感想を言っていたのだが、その感をまざまざと見せつけられたようだった。
 この風景自体、大変風光明媚で隠岐を象徴する眺めといっても過言ではないくらい素敵なものなのだが、この眺めを目の当たりにした瞬間、ガツンと自分の中で大きな音を立てるくらいにまざまざとその言葉を実感した。

 先にも書いたが、私はかつて藤原定家・源実朝といった歌人の生涯をくまなく探ったことがあったが、彼らの人生に大きく関わった後鳥羽院という人物のことをこれまであまり深く考察して来なかった。
 いずれやらなければならないと思いながらも時間だけが過ぎていった感は否めない。
 だが今回こういう機会を得て、改めてその存在の重要性を感じずにはいられなかった。
 明治の頃、俳諧から発句を独立させ俳句へと昇華させた正岡子規。彼の『歌よみに与ふる書』の中で後鳥羽院への言及が一切なかった。
 しかしそのことが結果的に院の存在をある意味で辱め、ある意味で昇華させたと思う。
 定家と院とのやりとりの中、その蜜月は本当に短かった。終いには定家は院より蟄居謹慎の処分を受ける。
 だがその実、歌ということに対しての彼らの情熱は良きライバルだったと言ってもいい。

 今後しばらくは後鳥羽院を追うことになるとは思うが、この稀代の歌人の評価を彼の起こした承久の乱と相俟って、その意義をもう一度問い直さなくてはならないという意を改めて強くしている。


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