藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 その1(治承4年~建仁元年)

 
 
 (甚之助蔵 藤原定家『明月記』全3巻、国書刊行会、明治44年刊)
 
 さて、フィールドワーク編も終わったということで、これからは例の後鳥羽院単推しのママとの共同研究(←大袈裟w)をちょいちょい記事にしていってみようと思います。

 まずその最初に、生前の後鳥羽院の姿を知る上で貴重な史料となる歌人・藤原定家の日記『明月記』に描かれている院像を見ていきます。
 今回は”その1”として後鳥羽院の名前が出ている『明月記』の記事の年月日をピックアップし、その時期に院と定家はどのような関係性・交流があったかをみていきたいと思います。
 ちなみに後鳥羽院の名前が初めて『明月記』に登場するのは建久3年4月10日条、最後に登場するのは文暦元年6月3日条になります。

 私の所蔵している『明月記』(全3巻、国書刊行会、明治44年刊)を底本とし、各巻ごとの元号区分を示すと
  ・第1巻 治承4年(1180)~建永元年(1206)
  ・第2巻 承元元年(1207)~嘉禄2年(1226)
  ・第3巻 安貞元年(1227)~嘉禎元年(1235)
 となります。

 まずは”その1”として第1巻の治承4年~建永元年を見ていきます。
 一応今後
  ・その2 建仁2年~元久元年(第1巻)
  ・その3 元久2年~建永元年(第1巻)
  ・その4 承元元年~承元2年(第2巻)
  ・その5 建暦元年~建暦2年(第2巻)
  ・その6 建保元年~建保6年(第2巻)
  ・その7 承久元年~嘉禎元年・その後(第2・3巻)
  ・・【運命の四の宮】藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 序奏
 と稿を分ける予定です。
 後鳥羽院に関する記載は第1巻と第2巻に集中しており、巻ごととするとあまりに数が膨大となるため、このような分け方としました。
 
 後鳥羽院に対する呼称はさまざま用いられているますが(その多くが「院」ないし「上皇」「仙洞」)、それも都度示します。また院の名前が直接記されていない記事でも、院の言動が窺えるものも掲載します。
 基本的に院の記述のある日付をまとめることを目的としていますが、特筆すべき記載がされているものについては簡易的に記します。しかし「院に参ず」といったように定家が院と会ったといった程度のものは除いています。
 『明月記』は56年という長きにわたり書き綴られていますが、欠落している年月も多く、そこを補完するために他の公卿日記や史料を参照します。また本文中「欠」としているのは、底本および主に参照した古写本類での欠落という意味であり、「欠」あるいは「○○日条のみ現存」と付していても、実際には個人所蔵のものをはじめとした複数の断簡が現存している場合がありますのでご留意ください。

 また適宜、堀田善衛『定家明月記私抄』『同 続編』(ちくま学芸文庫、1996年)も参照します。堀田氏の著作に関しての好き嫌いあるかと思いますが、『明月記』の全編を通して論じたものが他にはほぼ皆無なので。ちなみにママは「堀田善衛はキライ」と豪語していますw
 

 

≪底本≫
 藤原定家『明月記』全3巻、国書刊行会、明治44年刊

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 定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)
 定家明月記私抄 続篇 (ちくま学芸文庫)
 

目次

    ●藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 その1(治承4年~建仁元年)
     治承4年
     養和・寿永・元暦年間 欠
     文治年間 欠
     建久年間
     正治元年
     正治2年
     建仁元年

 

(『明月記』治承四年二月条 呉文炳氏所蔵『史料編纂』より)
 

治承4年

 1180年
 後鳥羽院 1歳
 藤原定家 19歳

2月
5日 『明月記』はじまる
21日 高倉譲位、安徳践祚

3月
17日 高倉、安芸御幸延引の由
   延暦寺・園城寺・興福寺の僧徒、後白河・高倉の身柄を奪取せんとする流言。平宗盛は平通盛・経正を鳥羽殿に、知盛を高倉の御所の警護に任ず(『玉葉』『山槐記』等) 
19日 高倉、安芸・厳島に御幸
 →のち、源通親『高倉院厳島御幸記』成立

4月
9日 源頼政、以仁王に平氏追討の令旨を請い、源行家をして諸国の源氏に伝える≪以仁王の令旨≫(『玉葉』『吾妻鏡』)

5月
10日 平清盛、兵を伴い入京(『玉葉』)
15日 平氏、以仁王を臣籍降下させ「源以光」と改め土佐配流を決める。以仁王、園城寺へ奔走
21日 平頼盛・教盛・経盛(清盛の弟)、知盛・重衡(清盛の子)、維盛・資盛・清経(重盛の子)、源頼政を大将に園城寺を攻めしむ(『玉葉』)。頼政は自邸を焼き払い以仁王と合流(『百錬抄』)
26日 以仁王・源頼政ら、興福寺へ奔走。宇治川にて頼政ら討死≪橋合戦≫。以仁王、山城国相楽郡光明山鳥居前にて討死
27日 院御所議定、以仁王の令旨に奉じた者を追討(『玉葉』『山槐記』『愚管抄』等)
28日 高倉、密かに清盛の第に御幸し、以仁王・頼政の首級を御覧(『百錬抄』)
 →当時、皇族が死穢の首級を見ることは貴族間の批判の的だった(『吉記』養和元年8月20日条)
 
6月
2日 福原遷都
3日 後白河、平教盛の第に移る(『玉葉』『百錬抄』)
24日 源頼朝、以仁王の令旨を奉じ、平氏討伐のため御家人を招致(『吾妻鏡』『愚管抄』)

7月
14日 高倉皇子・尊成(後鳥羽)産まれる(『一代要記』)

8月
17日 源頼朝、伊豆にて挙兵(『吾妻鏡』『玉葉』『山槐記』等)
24日 頼朝、石橋山の戦いで敗走(『吾妻鏡』『源平盛衰記』)

9月
7日 源義仲、信濃にて挙兵(『吾妻鏡』『保暦間記』)

10月
20日 富士川の戦いにて、平維盛軍敗走(『玉葉』『山槐記』)

11月
12日 平清盛、遷都の可否を議す(『玉葉』『吉記』)
26日 後白河・高倉、入京。後白河は六波羅泉殿に入る
30日 東国兵乱の事を議す。藤原長方、後白河院政再開と松殿基房召還を主張(『山槐記』)

12月
4日 勅により松殿基房を召還す(『山槐記』)
16日 基房、帰京す(『山槐記』『玉葉』)
18日 平清盛、後白河の幽閉を解き、院政復活を奏請「法皇天下ノ政ヲ知シ食スベキ由」。讃岐・美濃を院分国とす(『玉葉』)
21日 高倉の病状悪化「今ニオイテハ起キ賜リ給フ能ハズ」(『玉葉』)
28日 平重衡、南都を攻め東大寺・興福寺・園城寺を焼く≪近江攻防・南都焼討≫

養和・寿永・天暦年間 欠

 1181~1184年
 後鳥羽院 2~5歳
 藤原定家 20~23歳

養和元年
1月
4日 東大寺・興福寺の僧綱以下の任を解き、寺領荘園没収(『百錬抄』)
8日 後白河近臣の平知康・大江公朝・武田有義らを解官(『玉葉』)
14日 高倉、六波羅池殿で崩御
17日 後白河院政再開「天下万機、法皇ノ如ク聞シ食ス」(『百錬抄』)
25日 平清盛、娘の御子姫君を後白河の猶子として後宮に入れる(『玉葉』『保暦間記』)

閏2月
4日 平清盛、薨去。「愚僧早世ノ後、万事ハ宗盛ニ仰セツケ了ハンヌ。毎事仰セ合セ、計ラヒ行ハルベキナリ」「天下ノ事、偏ニ前幕下ノ最ナリ。異論アルベカラズ(5日条)」(『玉葉』)
15日 平重衡、東国に出陣

4月
 ※この月、藤原定家『初学百首』を詠む(『拾遺愚草』)

7月
14日 養和と改元(『百錬抄』)

8月
14日 後白河皇女・亮子内親王を安徳の准母とす(『吉記』『玉葉』)

10月
 この月、平宗盛、諸道の源氏を討たんとするも果たせず(『玉葉』)

11月
25日 平徳子、建礼門院となす

12月
4日 崇徳中宮・皇嘉門院、崩御(『玉葉』)
13日 後白河、新造御所に移御

 ※この年、養和の大飢饉(『方丈記』)

寿永元年 欠
2月
15日 源頼朝、伊藤祐親の子・祐康を放つ(『吾妻鏡』『曾我物語』)
25日 平教盛をして源義仲を討たしむ(『吉記』)

3月
15日 源頼朝、由比ヶ浜より鶴岡に至る新道を造営(『吾妻鏡』)

5月
27日 寿永と改元(『百錬抄』)

8月
12日 源頼朝の子・頼家産まれる(『吾妻鏡』)

寿永2年 欠

2月
21日 安徳、後白河に朝覲行幸(『百錬抄』等)

3月
 ※この月、源義仲の子・義高を人質として源頼朝に送り和睦を請う(『一代要記』『保暦間記』)

4月
17日 平維盛ら兵を率いて源義仲を討たんとす(『玉葉』『百錬抄』)

5月
11日 砺波山にて平氏敗走≪俱利伽羅峠の戦い≫(『玉葉』『百錬抄』等)
 ※この月、宋陳和を招き東大寺大仏再建を開始(『吾妻鏡』)

7月
24日 安徳、法住寺に御幸「遷都有ルベキノ気出来」(『吉記』)
25日 平宗盛、安徳・建礼門院および平氏一族と神器を携え出京(『玉葉』『愚管抄』等)
28日 源義仲、入京(『玉葉』『吉記』等)

8月
6日 後白河、惟明・尊成を召見す「凡ソ天子ノ位、一日モ曠シクスベカラズ」(『玉葉』)
14日 源義仲、以仁王の御子・北陸宮の即位を奏請(『玉葉』)
20日 後鳥羽、践祚(『愚管抄』『たまきはる』等)
   「剣壐ヲ得ズ践祚ノ例、希代ノ珍事ナリ」(『玉葉』)

9月
19日 九条兼実に後鳥羽即位の間の事を諮わしめ給う(『親経卿記』)
   義仲に平氏追討を命ず(『玉葉』)
 この月、宮中にて略奪・狼藉横行す(『玉葉』)

10月
9日 源頼朝を赦免し、本位を復す(『玉葉』)
14日 寿永二年十月十四日ノ宣旨を下す。東海・東山道諸国の貢税、神社仏寺王臣家領荘園等を各本主に還付(『百錬抄』)
23日 源頼朝と源義仲に和平を命ず(『玉葉』)

閏10月
15日 源義仲、帰京す(『一代要記』)

11月
4日 源義経、不破ノ関に至る(『吾妻鏡』『吉記』)
17日 後白河、兵を法住寺殿に集める(『吉記』)
19日 法住寺合戦。翌日、後白河幽閉(『玉葉』『愚管抄』等)
21日 源義仲、近衛基通・徳大寺実定を罷免し、藤原師家を内大臣摂政とし、みずから院御厩別当となる(『玉葉』『山槐記』等)
29日 源行家、宝山にて平教盛・重衡と戦い敗走(『玉葉』『吉記』)

 ※この年、北条泰時産まれる。藤原定家、藤原季能女と結婚か?

元暦元年 欠

1月
11日 源義仲を征夷大将軍とす(『百錬抄』) ※『玉葉』では”征東大将軍”
20日 源範頼・義経、入京。源義仲、近江粟津で敗死(『玉葉』『吾妻鏡』等)
22日 藤原師家を罷免し、近衛基通・徳大寺実定を還任す(『兵範記』)
26日 宣旨を下し源頼朝に平氏追討を命ず(『玉葉』『吾妻鏡』)
29日 宣旨を下し源義仲残党追補を命ず(『玉葉』『吾妻鏡』)

2月
7日 一ノ谷の合戦で平氏郡壊滅す(『吾妻鏡』『愚管抄』等)
10日 後白河、平宗盛に三種の神器の返還を求む(『玉葉』)
19日 武士押妨停止の宣旨を下す(『玉葉』)
22日 諸国に兵糧米停止の宣旨を下す(『玉葉』)

4月
15日 崇徳院・藤原頼長の廟を春日河原に建立す(『玉葉』『吉記』)
16日 元暦と改元(『百錬抄』)
26日 源義高、討死す(『吾妻鏡』)

7月
8日 伊賀・伊勢の平氏残党蜂起≪三日平氏の乱≫(『玉葉』『山槐記』)

8月
6日 源義経を検非違使・左衛門少尉に任ず(『玉葉』『山槐記』)
8日 源頼朝、源範頼をして北条義時以下を率いて平氏討伐を発す(『吾妻鏡』)
23日 後鳥羽即位の由を山陵に告げる(『玉葉』『山槐記』)

10月
24日 源義経に院昇殿・内昇殿を許す(『玉葉』)

12月
3日 源頼朝、北条時政に命じ園城寺のことを源義経に告げる(『吾妻鏡』)

文治年間

 1185~1189年
 後鳥羽院 6~10歳
 藤原定家 24~28歳

文治元年 欠

2月 
18日 源義経、屋島にて平氏を破る(『吾妻鏡』)
   那須与一、扇の的を射る(『平家物語』)

3月
24日 源義経、壇ノ浦にて平氏を討つ。平氏一族滅亡(『玉葉』『吾妻鏡』等)
 「尼前、我ヲバ何地ヘ具シテ行カントスルゾ」
 「君ハ未ダ知シ召サレ候ハズヤ。先世ノ十善戒行ノ御力ニヨッテ、今万乗ノ主トハ生レサセ給ヘドモ、悪縁ニ引カレテ御運スデニ尽キサセ給ヒ候ヒヌ。(中略)アノ波ノ下ニコソ、極楽浄土ト申シテ、メデタキ都ノ候フ。ソレヘ具シ参ラセ候フゾ」
 二位尼(平時子)、安徳を抱き壇ノ浦に入水。安徳崩御、宝剣海没す(『平家物語』)

4月
4日 平氏討滅の報、京に届く(『玉葉』『百錬抄』等)
11日 平氏討滅の報、鎌倉に届く(『吾妻鏡』)
25日 宝剣を除く神器、還京(『玉葉』)

5月
1日 建礼門院、出家(『玉葉』『吉記』等)
5日 源頼朝、源範頼を遣わし宝剣を捜索せしむ(『吾妻鏡』)

6月
21日 平宗盛・清宗を斬首(『玉葉』『吾妻鏡』)
23日 平重衡を斬首(『玉葉』『吾妻鏡』)

7月
9日 京都大地震(『玉葉』『山槐記』等)

8月
14日 文治と改元(『百錬抄』)
28日 東大寺大仏落慶供養。後白河、入眼す(『玉葉』『山槐記』)

10月
6日 梶原景時、源行家・義経の反状を源頼朝に密訴(『吾妻鏡』)
18日 源行家・義経に宣旨を下し源頼朝追討を命ず(『吾妻鏡』『玉葉』)

11月
3日 源行家・義経、出京(『吾妻鏡』『玉葉』)
15日 高倉院皇女・潔子を内親王とす。後白河の「行家義経ノ謀反ハ天魔ノ所為」との弁明に、源頼朝は「日本国第一ノ大天狗ハ更ニ他ノ者ニアラズ候フカ」と糾弾(『吾妻鏡』『玉葉』)
24日 北条時政、兵を率いて入京(『玉葉』)
29日 文治の守護地頭勅許(『吾妻鏡』)

12月
6日 源頼朝、平親宗以下、源行家・義経の解官・追却を奏請(『吾妻鏡』)
28日 源頼朝の要請により、九条兼実、内覧となる(『玉葉』『吉記』)

 ※この年、九条良経産まれる。

文治2年 欠

2月
3日 後白河、源頼朝に熊野御幸の供米等を進献せしめ給う(『吾妻鏡』)

3月
1日 北条時政、七ヶ国地頭を辞退(『吾妻鏡』)
6日 源頼朝、義経側・静御前を鎌倉に召致す(『吾妻鏡』)

5月
12日 北条時定、源行家父子を捕え斬首(『吾妻鏡』『玉葉』)

7月
12日 大江広元、入京(『吾妻鏡』『玉葉』)

 ※この年、事実上、近衛家と九条家また分離独立

文治3年 欠

2月
 この月、源義経、奥州に逃れる(『吾妻鏡』『源平盛衰記』)

 ※3月、栄西再び入宋(『興禅護国論』)

7月
20日 院宣を下し佐伯景弘らを宝剣捜索のため長門国に派遣(『百錬抄』)
   藤原俊成、『千載和歌集』を撰し奏進す(『明月記』文治4・4・22条)

9月
27日 佐伯景弘帰京す。宝剣捜索の卜形を奏す(『玉葉』)

文治4年 ※『明月記』4月22・24日、9月29日条のみ現存。

2月
13日 源義経、奥州在の報、朝廷に伝えられる(『玉葉』)

4月
13日 院御所・六条殿焼失(『玉葉』『山槐記』)

10月
12日 院宣を下し、藤原基成・泰衡に源義経追討を命ず(『吾妻鏡』)

文治5年 欠

1月
5日 源頼朝を正二位に叙す(『吾妻鏡』『北条九代記』)

閏4月
30日 源義経、陸奥国平泉の衣川館にて敗死≪衣川の戦い≫(『吾妻鏡』『玉葉』等)

7月
19日 源頼朝、藤原泰衡追討・奥州制圧に発つ(『吾妻鏡』)
20日 上西門院(鳥羽天皇皇女・統子内親王)崩御(『百錬抄』『仲資王記』)

9月
3日 藤原泰衡、討死す(『吾妻鏡』『北条九代記』)
18日 藤原泰衡の弟・高衡降伏し、奥州藤原氏滅亡≪奥州合戦≫(『吾妻鏡』『仲資王記』)

11月
19日 後鳥羽、皇兄の守貞・惟明を親王とす(『仲資王記』)

12月
5日 後白河皇女・覲子を内親王とす(『玉葉』)
9日 源頼朝、鎌倉に永福寺を建立し源義経・藤原泰衡の冥福を祈る(『吾妻鏡』)

建久年間

 1190~1198年
 後鳥羽院 11~19歳
 藤原定家 29~37歳

建久元年 欠

1月
3日 後鳥羽、元服ノ儀(『百錬抄』『玉葉』)
11日 九条兼実娘・任子、入内す(『玉葉』『増鏡』)

2月
 ※16日、西行、没(『拾玉集』『古今著聞集』等)

3月
20日 大江広元、鎌倉に還る(『吾妻鏡』)

4月
11日 建久と改元(『百錬抄』)
19日 藤原殖子を七条院となす(『百錬抄』『玉葉』)
26日 藤原任子を中宮となす(『百錬抄』『玉葉』)

11月
7日 源頼朝、千余騎の軍勢を率い入京(『玉葉』『吾妻鏡』等)
9日 源頼朝、参内し後白河と対面(『吾妻鏡』)
   「君ノ御事ヲ私ナク身ニカヘテ思候」(『愚管抄』)
24日 源頼朝を右近衛大将に任ず(『吾妻鏡』『玉葉』)

12月
14日 源頼朝、出京す(『吾妻鏡』)

建久2年 欠

1月
15日 源頼朝、政所を開設す(『吾妻鏡』)

2月
21日 法住寺殿再建始まる(『吾妻鏡』)
24日 後鳥羽、大内に御幸(『玉葉』)

3月
22日 新制十七条を下す(『三代制符』)
28日 新制三十六条を下す(『三代制符』)

6月
26日 覲子内親王、宣陽門院となす(『百錬抄』『玉葉』)

7月
 ※この月、栄西帰国し臨済宗を伝える(『興禅護国論』)

12月
8日 後鳥羽、松尾社に御幸(『玉葉』)
13日 後鳥羽、北野社に御幸(『玉葉』)
16日 後白河、新造の法住寺殿に移御(『玉葉』)
18日 後鳥羽、笛を習う(『玉葉』)
26日 守貞親王、元服ノ儀(『玉葉』)

建久3年

2月
18日 後鳥羽、六条殿に後白河を見舞う(『玉葉』『愚管抄』)

3月
10日 後白河の大漸により鳥羽殿御幸延引
13日 後白河、崩御

4月
10日≪主上≫ 弘法大師が朝廷に伝えた如意宝珠を見る
 →『明月記』での後鳥羽の初見

8月
 ※9日、源実朝産まれる(『吾妻鏡』)

11月
 ※9日 殷富門院、出家す(『伏見宮御記録』)
  29日 慈円を天台座主に任ず(『玉葉』)

建久4年 欠

4月
17日 御鞠(『玉葉』)

5月
 ※28日 曾我祐成・時政兄弟、父の仇・工藤祐経を討つ(『曾我物語』『保暦間記』等)

8月
 ※この月、源範頼を伊豆に配流(『吾妻鏡』『源平盛衰記』)

10月
11日 日吉に御幸(『百錬抄』『玉葉』)

建久5年 ※12月16日条のみ現存

1月
6日 五辻殿に御幸(『玉葉』『仲資王記』)

2月
27日 はじめて楽所を置く(『玉葉』)

閏8月
16日 内侍所に御幸(『玉葉』)

12月
2日 稲荷・祇園両社に御幸(『仲資王記』)
16日 内侍所御神楽

建久6年 ※12月10~15、26日条現存

3月
4日 源頼朝・北条政子、入京す(『吾妻鏡』)
12日 東大寺落慶供養に臨幸(『玉葉』『愚昧記』等)
29日 丹後局、北条政子・大姫と対面(『吾妻鏡』)

6月
3日 源頼家参内し御剣を賜る(『吾妻鏡』)

8月
13日 後鳥羽皇女・昇子内親王産まれる(『百錬抄』『三長記』等)

11月
1日 後鳥羽皇子・為仁(土御門)産まれる(『皇代記』『増鏡』)

12月
5日 昇子内親王、八条院の猶子になる(『三長記』)

建久7年
4月
16日    昇子内親王を三宮に准ず
24日≪旧主≫ 南殿で宴

10月
16日 後鳥羽皇子・長仁(道助法親王)産まれる(『仁和寺御伝』)

11月
25日 九条兼実、罷免される≪建久七年の政変≫(『愚管抄』)
26日 慈円、天台座主を辞し籠居(『華頂略記』『三長記』等)

建久8年 ※8月16日、12月5日条現存

2月
25日 藤原雅経を鎌倉より召還し御鞠(『源家長日記』)

7月
 ※14日 源頼朝の長女・大姫没す(『愚管抄』)

9月
10日 後鳥羽皇子・守成(順徳)産まれる(『一代要記』)

10月
13日 一条能保、薨去(『愚管抄』)

建久9年
1月
7日    譲位あるべし
11日    為仁を皇太子となす。後鳥羽譲位、土御門践祚
19日≪旧主≫ 譲位の日のこと
21日≪太上天皇≫ 七条院に御幸
23日≪上皇≫ 
27日≪太上皇≫ 最勝光院・法住寺に御幸、京中辺地を歴覧

2月
3日≪上皇≫ 殷富門院御所に御幸 
10日≪上皇≫ 宣陽院御所へ御幸。憚りあるの故云々
14日≪上皇≫ 石清水に御幸。ついで鳥羽殿に御幸し闘鶏・競馬を御覧。範子内親王、入内す
15日≪上皇≫ 久我通親邸に逗留
17日≪上皇≫ 夕方還御
19日≪上皇≫ 城南寺に御幸。鳥羽殿で競馬・鳥合、鳥羽に還御
20日≪上皇≫ 大内に御幸
26日≪院≫ 加茂に御幸。ついで最勝寺に御幸し御鞠。明日、鳥羽でに御幸

3月 欠
3日 土御門、即位ノ儀。範子内親王を皇后とす(『百錬抄』『猪隈関白記』等)
 ※この月、法然『撰択本願念仏集』を撰す(『法然上人行状絵図』)

4月 欠
21日 二条殿造営成り、移御(『見戸記』『猪隈関白記』等)

5月 欠
14日 鳥羽殿に御幸(『猪隈関白記』)

7月 欠
28日 宇治平等院に御幸(『皇帝紀抄』)

8月 欠
16日 熊野に御幸(初度)(『古事部類』)

10月 欠
28日 鳥羽殿に御幸(『自暦記』)

12月 ※10日条のみ現存
 ※27日、源頼朝、落馬す(『吾妻鏡』)

 

正治元年

 1199年
 後鳥羽院 20歳
 藤原定家 38歳

1月
5日    七条院御所に御幸
9日≪院≫ 11日八条院、13日日吉御幸の予定
11日    源頼朝、薨去(同月20日条)
14日≪院≫ 御月忌につき左右府へ御幸
17日≪院≫ 尊勝陀羅尼に参ず
18日≪院≫ 源頼朝薨去により蓮華王院御幸延引
 ※26日 源頼家、宣旨により頼朝の遺跡を相続(『吾妻鏡』)

2月
13日≪院≫ 11日に源頼朝の冥福を祈り不断読経
14日≪院≫ 三左衛門事件
 ◎三左衛門事件:一条能保・高能父子の遺臣が土御門通親襲撃を計画したとして逮捕された事件
17日≪院≫ 鳥羽殿に御幸。大内花御覧
 →後鳥羽作歌の初見 cf,『明日香井和歌集』『源家長日記』
18日≪院≫ 読経結願
27日≪上皇≫ 明日、鳥羽殿御幸の由

3月
11日≪院≫
13日≪上皇≫ 六条殿に御幸
19日    文覚を佐渡に配流(3月20日条)
4月
12日    源頼家親政を停められ北条時政ら13人の合議制敷かれる(『吾妻鏡』)
26日≪院≫
 ※27日 正治と改元す(『百錬抄』)

5月
10日    六条殿・鳥羽殿に御幸

6月
 ※22日 土御門通親を内大臣に任ず(『猪隈関白記』)
 ※30日 源頼朝の次女・三幡(乙姫)没す

7月
4日≪院≫ 八条院、出家す
5日≪院≫ 明後日法勝寺に御幸の由
9日≪院≫
11日≪院≫
13日≪院≫ 大内に御幸
14日≪上皇≫
18日≪院≫
21日≪院≫ 守成(順徳)初めて院に会う
22日≪院≫

8月
13日≪院≫ 七条院に御幸。ついで土御門通親の室・範子の第に御幸
20日    熊野御幸(2度目)(13日条)
27日≪院≫ 熊野御幸中、不快なことあり

9月
8日≪上皇≫ 熊野より還御
14日≪院、上皇≫
23日≪院≫ 11月17日に守成、御魚味ノ儀の由。29日、昇子内親王、御着袴ノ儀の由
24日≪院≫  藤原成定、院に馬二頭を献ずる

11月 欠
6日 北斗法を修す(『御室相承記』)
16日 石清水・賀茂両社に御幸(『師守記』『猪隈関白記』)
17日 日吉・祇園・北野社に御幸(『猪隈関白記』)
27日 二条殿に御幸し朝觀ノ礼(9月23日条)

12月
4日≪院≫ 9日昇子内親王、院に御幸の由
10日    法性寺に御幸。16日、長仁、御魚味ノ儀・親王宣下の由
11日≪院≫ 密々に宮、院に参ず
13日    源在子を三宮に准ず
16日≪院≫ 長仁。守成に親王宣旨。御魚味ノ儀
17日≪院≫ 「兵仗御慶に依り、人多く参ず」
 ※18日 御家人の一揆により梶原景時、鎌倉追放(『吾妻鏡』)
22日≪院≫ 法性寺に御宿。御仏名
24日≪院≫ 肅子内親王を斎宮とす

正治2年

 1200年
 後鳥羽院 21歳
 藤原定家 39歳

1月
1日≪院≫ 節会・拝礼
3日≪院・上皇≫ 対面の南において牛を御覧。明日、三条殿に御幸
6日≪院≫
8日≪院≫ 藤原範光の馬を御覧
12日≪上皇≫ 水無瀬御幸
14日≪上皇≫ 還御
15日≪院≫
16日    踏歌節会
18日    蓮華王院修正に臨幸
 ※20日 梶原景時没す(『吾妻鏡』)
22日≪院≫ 尊勝陀羅尼供養
29日≪院≫

2月
3日≪院≫ 綾小路京極あたりを見物
5日≪院≫ 北斗法を修す
9日≪院≫ 御所御遊
18日≪院≫ 土御門通親の水無瀬別業に御幸
20日≪院≫ 長仁、御着袴ノ儀

閏2月
13日≪院≫ 賀茂・北野などに御幸
14日    日吉・祇園などに御幸
16日    土御門通親の室・範子の三条坊門京極堂に臨幸
25日≪院≫ 蓮華王院領近江矢幡荘を静快に賜う
27日≪上皇≫ 水無瀬に御幸

3月
6日≪院≫ 臨時除目
9日    長講堂御八講に臨幸
12日≪院≫ 二条殿に五体不具の穢
13日≪院≫ 穢により春日御幸延引
20日≪院≫
21日≪上皇≫ 春日御幸
26日≪上皇≫ 還御
27日    石清水臨時祭

4月 ※6・9日条のみ現存
15日 守成を皇太子となす(『猪隈関白記』)
17日 鳥羽殿に御幸(『猪隈関白記』)

6月 欠
12日 守成とともに土御門通親の第に御幸(『猪隈関白記』)
28日 藤原任子を宜秋門院とす(『玉葉』)

7月
9日    佐々木経高、兵を集め京中騒擾
11日≪院≫ 
15日≪院≫ 正治初度百首の沙汰あり
18日≪院≫ 百首作者のこと

8月
2日≪院≫ 御祈りの由、12日日吉御幸、7日間御参籠のこと
4日    土御門通親の室・範子、薨去
15日≪院≫ 宜秋門院、院百首の題を再び給わる
17日≪院≫ 
20日    東大寺領の野宮木柴役を免除す
25日≪院≫ 定家・藤原隆房・慈円など百首を提出する
26日≪院≫ 定家の詠草に深く感銘する「道ノタメ面目幽玄、後代ノ美談ト為ラン」

9月
8日≪院≫ 昨日、覆物の御卜あり
11日≪院≫ 後鳥羽皇子・雅成(六条宮)産まれる
12日    定家に十首歌の詠進を命ず
13日≪院≫ 定家、仙洞十人歌合の和歌を詠進す
23日≪院≫ 藤原長房、御使となり左大臣殿に参ず
24日≪院≫
26日≪上皇≫ 水無瀬御幸
27日≪院≫ 肅子内親王、野宮に入御。定家、院に和歌を詠進し百首を清書す
29日≪上皇≫ 還御
30日≪院≫ 院当座歌合

10月
1日≪院≫ カカル所(小御所)に定家を呼び、内輪の歌会を催す(院当座二首歌合)
2日≪院≫ 定家、命により西園寺公経邸にて歌のことを示し合わす
4日≪院≫ 源家長を以て暫らく伺候すべき由。十首和歌、俊成の許へ残すべき由
5日≪院≫ 『仙洞十人歌合』一巻を定家に与え俊成に届ける
7日≪院≫ 二条殿に御方違御幸
9日≪院≫ 定家、俊成判の歌合を院に献ず
11日≪院≫ 定家、御首の題を給う
12日    土御門通親の題にて影供歌合
13日    昨日の定家の歌に叡感する由
17日≪上皇≫ 殷富門院安井殿蓮華光院供養
19日≪院≫
22日≪院≫ 馬場殿に御幸。夜、雑々作者の歌合せあり
24日≪院≫ 馬場殿に御幸
27日≪院≫ 除目。源頼家を左衛門督、従三位に叙す

11月
3日≪院≫ 六条殿に御幸。雅成、御五十日ノ儀
7日≪院≫ 二条殿に御方違御幸。定家、院より召しあり(二条殿新宮歌合)
8日    土御門通親家影供歌合。定家、勧盃を勤める
11日≪上皇≫ 雪のため鳥羽殿に御幸
14日    昨日、五節
15日≪院≫ 童子を御覧
16日    豊明節会
17日    地蔵講
21日≪院≫ 守成、二条殿にて御着袴ノ儀
24日≪院≫ 大原野祭
22日≪院≫ 鳥羽殿に御幸
26日≪院≫ 宣旨を下し近江国住人・柏原弥三郎を追討す
28日    内裏二首歌会。熊野御幸(3度目)

12月
15日≪上皇≫ 伏見稲荷に御幸
16日≪院≫ 馬場殿に御幸
18日≪院≫ 馬場殿に御幸。阿弥陀講
19日    法性寺御幸。御仏名
20日≪院≫
21日≪院≫ 雅成、六条殿にて御百日ノ儀
22日    御仏名(12月8日条)
23日    水無瀬に御方違御幸
28日≪院≫

 ※この年、後鳥羽皇女・礼子内親王産まれる。守貞皇女・能子産まれる。宇都宮頼綱女(為家室)産まれる。『無名草子』成立か?(一説に建仁2年)

建仁元年

 1201年
 後鳥羽院 22歳
 藤原定家 39歳

1月 欠
1日 節会、拝礼(『猪隈関白記』『玉葉』)
7日 院御所和歌御会、影供歌合(『玉葉』『後鳥羽院御集』)
23日 二条殿に御幸。二条烏丸で御見物。城長茂、頼家追討の宣旨を請い院御所に乱入。院、聴こし給わず。長茂らを吉野で誅す(『猪隈関白記』『玉葉』『三長記』等)
25日 式子内親王、薨去(『源家長日記』等、『明月記』建仁2年8月22日条)

2月 欠
10日 水無瀬に御幸。老若歌合(『後鳥羽院御集』)
13日 建仁と改元(『百錬抄』)

3月
19日    水無瀬御幸
20日    水無瀬殿白拍子合
21日    江口・神崎の遊女による今様合
22日    御碁、御将棋
23日    還御
27日    尊勝陀羅尼供養
29日≪院≫ 新宮撰歌合

4月
24日≪院≫ 22日に鳥羽殿にて三船の催しと和歌尚歯会ある。定家、院より明後日の和歌の題を給わる
26日≪院≫ 鳥羽殿初度歌会

5月 欠
10日 城南寺歌合(『後鳥羽院御集』)

6月
6日    定家に『千五百番歌合』の百首を早く詠進すべき由仰せあり
11日    定家、百首詠進す
13日≪院≫ 「百首殊ニ宜シキ由院ノ御気色アリ」定家喜ぶ
16日    院の御製に定家感涙す
23日≪院≫ 定家、俊成の百首を院に持参す

7月
 ※2日 二条殿競馬にて院、落馬す(『猪隈関白記』)
26日≪院≫ 新古今集編纂のため和歌所を設置。定家、和歌所寄人となる
27日≪院≫ 二条殿に和歌所設置(和歌所の図アリ)。和歌所歌会、当座歌会

8月
3日    和歌所影供歌合
7日≪院≫ 九条良経『後撰集』『拾遺集』から抄出した百首を院に献ず
9日≪院≫ 定家に熊野御幸御共の由
13日    定家、明後日の撰歌合の和歌を進上
15日≪院≫ 和歌所撰歌合

9月
26日≪院≫ 定家、五十首の歌、院より急ぎ仰せられる。定家、九条良経が詠進する句題五十首歌を見る

10月
1日    熊野御幸の御精進屋始めらる
3日    日吉に御幸。
5日≪院≫ 熊野御幸(4度目)
6日≪院・太上皇≫ 阿倍野・王子に参詣。住吉社歌合
7日    8ヶ所参詣、相撲・神楽など。厨子王子歌会、当座歌会
8日    同上、夜歌合
9日    山道にかかる、9ヶ所参詣。湯浅王子歌会、当座歌会
11日    雨により停留。切部王子歌会
13日    石田河を渡る。滝尻王子歌会
14日    近露王子歌会
15日    発心門到着
16日    本宮到着。歌会二座
17日    夜、種々な御遊。宜秋門院、出家す(27日条)
18日    船で新宮へ、御経供養・乱舞・相撲・歌合。新宮歌合
19日    那智参詣。歌会二座
21日    帰路へ
25日    摂津長塚より淀川を渡る
26日    入京還御

11月
3日    『新古今集』撰進下命
 「上古以降ノ和歌、撰進スベシトイヘレバ、此ノ事、所ノ寄人ニ仰セラルト云々」
21日    豊明節会
22日≪院≫ 安井殿に御方違御幸。鳥羽殿御幸、延引
27日≪院≫ 長仁(道助法親王)、仁和寺に渡り給う。鳥羽殿、水無瀬、萱御所、開田院などに御幸

12月
2日    鳥羽殿影供歌合。六条坊門城にて出火
4日    藤原公継を伊勢に遣わし奉幣
 ※9日 九条兼実の室・兼子、薨去
18日    守成、殷富門院の猶子となる
19日≪院≫ 還御
 

 11・12月の記事で交錯し月不詳の記事あり
24日≪院≫ 例講
 ※この日、藤原多子(近衛皇后・二條太皇太后)崩御(『今鏡』等)
28日≪院≫ 石清水社歌合
29日    賀茂に御幸

 
≪その2 建仁2年~元久元年(第1巻)へ……≫

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