後鳥羽院project

京の都とその周辺と【RE:後鳥羽院を巡るフィールドワークその2】


 
 
 

目次

プロローグ~そうだ京都へ行こう!~
金ヶ原の裾野
私的聖地巡礼
 
参考文献
 

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プロローグ~そうだ京都へ行こう!~

 
 2023年末、所用をかねて上京した折、一日半ほど予定がぽっかり空いてしまった・・・。

 今までならこんな時、時間が出来れば国会図書館に籠るなりネット上のつながりのある人に片っ端から連絡を入れるなりするのだが、最近はなんだかそんな気にもなれずにいる。もちろん会っておきい人もいっぱいいるし、旧友とも顔を合わせておきたい。でも2022年頃からの身辺のゴタゴタが続いたせいもあって、最近では時間があればとにかく独りでいたい、そんな気持ちになるのだった。
 ・・・しかしそうは言うものの、せっかく上京している折に一日半という莫大な時間を無為にするのは心苦しかった。
 
 「はて? どうしたものか?」
 
 そう思った矢先に浮かんできたのは、とある方の御陵のことである。コロナ禍以直前、ママは一人でブラっと行ってきたなどと報告してくれたけれど、私自身は未だ訪れていない御陵……、そう、土御門院の眠る「金原御陵」である。
 
 
 
 最初の隠岐行の際、ママと連れ立って大原御陵→水無瀬神宮→隠岐という流れの中、途中の長岡京在の金原御陵は丸っきりスルーしていた。そもそも讃岐・阿波行の折も、私は野暮用にかまけて阿波から都内へ直帰、ママは暇に任せて悠々と金原行となったが、その直後に例のウイルスである。なんだかんだ自分的には数年越しのチャンスであった。
 
 そこで心に去来したのは、某鉄道会社の名コピー
 「そうだ京都へ行こう!」
 である。
 
 そう思い立ったからには行動せずにはいられない。なにせ南北-東西にと"くの字"に長い本州なのだから陸路で移動可能なのだ!


 
 
 

金ヶ原の裾野

 

 とまあ、ブラっと京都までたどり着いてみた。
 
 けども、相も変わらず目的地をすぐに目指すわけで、まず向かったのはこちら

 大阪府・島本町のJR京都線(東海道本線)・島本駅
 2023年夏の隠岐再訪と合わせ、2018年ぶりである。
 
 ・・・だがここで不測の事態に気づいてしまうのである。
 

 
 「あ、みづまろくん、忘れてきた・・・」
 
 
 
 隠岐再訪時、同行できなかったママの代わりに一緒に旅した島本町のマスコットキャラクター「みづまろくん」を連れてきていなかったのである! 突然の京都行軍だったのでこの辺致し方ないだろうとは思いつつ、多分北の大地の大雪山麓在の書斎で寂しく「なんで・・・」と泣き叫ぶみづまろくんの姿が予想された。
 
 
 

 気を取り直して島本の街を行く。
 
 
 
 そしてまず訪れたのが

 「水無瀬神宮」!
 
 
 
 後鳥羽院はじめ承久の乱で流された三上皇を祀る聖地である。

 風格漂う本殿は今も健在。
 
 2024年02月にあったイベントの告知もされていた(後日談:行きたかった・・・)。


 
 ちなみにこの時、前回来訪時には買わなかったお守りも買ってみた。

 その際、宮司ともしばし歓談できたのは良い経験だった。
 
 
 
 さて、水無瀬神宮の周辺をウロチョロ・・・。

 あ、みづまろくんおったやん!
 
 
 
 気を取り直して、水無瀬離宮はかつて広大な敷地面積を誇っていたらしいのだが、その一端をうかがい知る碑のもとへ。。。

 

 「後鳥羽上皇水無瀬宮址」碑!
 

 この碑が建てられた大正時代、付近にはまだ離宮の築垣が残っていて、この碑はその上に建てられたらしい。
 
 この周辺も昨今の再開発の波が押し寄せ、発掘等の調査に支障をきたす事態になっているらしい。
 自分のように古里に想いを馳せる者としては、その実情の両側面を慮るしかない。ただ、歴史の重きを眼前の利益に侵されることだけはあってはならない、そのことを思うばかりである。
 
 
 
 そんなこんなしながら再びJR京都線を上る。

 長岡京市着
 
 いつぶりだろうか? もっとも通過することはままあったにせよ、長岡京駅に降り立つこと自体が人生二度目くらいである。そもそも「長岡京」という名称そのものが教科書のソレなのだw
 

 で、事前の下調べで長岡京の目的地までの距離を把握していたので、行きだけはタクシーを利用することにした。
 

 どんと山裾に広がる住宅街に降り立つ。
 
 そんな住宅街を山の方へ歩いて行くと出くわすのが、

 「参陵道」と「御陵道改修奉仕記念碑」である。
 
 参陵道の碑には特段の記載はなかったが、改修奉仕記念碑の方は昭和13年のものである。

 

 師範学校や一中など、当時改修に参加した学校名が記されている。
 
 
 

 そこから少し行ったところには御陵を示すまた別の碑がある。「左一町」ということなので、ここからおよそ100mだ。
 
 
 

 遥か彼方に比叡山を望む。
 
 
 

 ということで到着したのが「土御門天皇金原陵」!
 やっと来られた~!
 

 

 寛喜3年(1231)10月11日、阿波で崩御した土御門院は現地で火葬された後、御遺骨はこの金ヶ原の地に埋葬された。
 
 土御門院の遺品を前に、母・修明門院(源在子)は

「いみじうあはれにて、御目もきりふたがる心ちし給ふ」『増鏡』「藤衣」段

と嘆き悲しんだという。
 
 その後、金ヶ原の地に法華堂(金原御堂)が営まれることとなったが、その時の様子は藤原定家『明月記』天福元年(1233)12月11日および12日条に詳しい。

「十一日、……(承明門院)月来ご経営の金ヶ原の御堂、纔に功を終へらる。明日供養に依り(聖覚)今暁に渡りおはします。女房多く参ず。……今夕、円明寺に御宿……明日御堂に渡りおはします。件のところ、故院の御骨を奉安さる。此の堂を立てらるる御遺誡と云々……」
「十二日、……後に聞く、女院御堂供養、前の内府兄弟三人皆子息を率ゐて列座す。資雅卿一人相加はると云々」

 まず11日条において、ここでは引用しなかったが、定家卿も渡御のため牛三頭を献じている。また翌日の供養は聖覚という僧侶によって執り行われたことが窺えるが、この聖覚は法然の弟子で親鸞の兄弟子にあたる。安居院法印ともいわれ、比叡山竹林房に住していた。著書として『唯信鈔』がある。
 そんな御堂供養は、「前の内府」源通親のところの兄弟、すなわち承明門院の兄弟である久我通光らも子息を引き連れ参列したほど盛大な法要だったようだ。
 この後もさまざまな法要が営まれたことが『平戸記』『勘仲記』に見える。
 
 
 
 江戸後期に編まれた『山陵考』によると、この金原御堂を管理するため金原寺という寺院が建てられたようだが、江戸初期にはすでに荒廃していたらしい。現在の形に修繕されたのは文久3年(1863)になってからだ。
 陵墓の修繕云々についてはさまざまな議論があり、ここで論を展開しても煩雑になるので割愛する。
 
 しかし一点だけふと思った疑問があった。
 「なぜ土御門院はここ金原陵に埋葬されたのだろうか?」
 父・後鳥羽院と弟・順徳院は三千院横の大原陵に埋葬されている。ふと地図を見やると、この金ヶ原と大原は京都市内を中心にちょうど裏鬼門と鬼門の位置関係にある。三上皇三人ともが崩御する以前より、当時の京には怨霊化の噂が巻き起こっていたが、もしかすると京の鬼門除けとして、また土御門院が承久の乱に与しなかったがためにこうして一人反対側に埋葬されたのではないか? あくまで個人的な邪推の域を出ないことだけど、そんなことを思った。
 
 ・・・の一方で、こんな風にも思えた。
 先述の金原寺だが、その別院には地蔵院という寺院が充てられた(地蔵院伝の阿弥陀如来像の台座に「本山金原寺当仏」の墨書がある)。この地蔵院は天台宗開祖・最澄によって開かれたと伝わっており、なによりこの金ヶ原一帯は清水寺を開山した延鎮により開創された「柳谷観音 楊谷寺」の麓にあたる。つまり京の方から見るとその入り口になる。
 そう考えると、平安の昔よりこの一帯は特別な場所として尊重されてきたのではないかと想像される。
 また承明門院の養父・源通親の猶子に証空(西山上人)という法然の高弟がいるが、この証空はのちに西山浄土宗・浄土宗西山禅林寺派・浄土宗西山深草派の「西山三派」の祖となる。先の地蔵院は現在「龍王山栄照寺」という西山浄土宗の寺院となっている。
 こうしたご縁を考えただけでも、なんとなく土御門院がこの地に葬られた意味が感じ取れる気がしてならない。
 

 本当に住宅街の山際にポツンとある、そんな感じだ。
 

 すぐ横の山肌には田畑が広がっている。
 
 
 
 以前、例のママが一人で訪れた際にも言っていたことだが、地元の人にはなじみ深く大切にされている感じがした。もちろん、後鳥羽院・順徳院に関しても同じく地元でとても大切にされている。だが、土御門院は特にローカルな印象を受ける。阿波行の時もそれは如実に感じた。
 そんな思いにふけりながら、帰り道は長岡天満宮経由で徒歩で戻った。本当だったらママと一緒に来たかったなぁなどと思いつつブラブラ歩いていたので、天神様周辺の写真をすっかり取り忘れてしまったw
 
 
 
 ・・・ところで、今晩どこ泊まろう?
 
 相変わらず勢いだけで京都に来てしまった。そして今回の旅の前月、京都に住む従姉妹から「いま京都な、インバウンドで海外の人いっぱい来てるからホテルとかめっちゃ高いし空きもないんよ・・・」みたいな話しを聞いていた。
 はてさてどーしたものか?
 とりあえず持てる手段とコネクションを手掛かりに、長岡京から京都へ戻る電車内でなんとか宿を手配。昨今日本中の観光地がインバウンドの影響で宿泊代なんかも跳ね上がっていると聞くが、探せばいろいろ出てくるもので、なんとか良心的な値段のビジホを確保できた。
 

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私的聖地巡礼

 
 で、翌日。
 
 
 
 朝イチで京都・嵐山方面へ。通勤通学で込み合う電車に揺られ数十分。


 嵯峨嵐山駅に到着。
 

 朝開け時の嵐山を行く。
 
 
 
 そして着いたのがこちら

 「常寂光寺」
 
 藤原定家卿の小倉山荘「時雨亭」があったとされる地に建つ日蓮宗の寺院だ。日本文学史に燦然と輝く「百人一首」はここで編まれたものだといわれている(諸説あり)
 開門前からすでに観光客の姿がちらほらあった。
 

 こちらの仁王門は貞和年間(1345~49)に建立されたものを江戸初期に移築したものとのこと。
 


 百人一首に名高い小倉山の山肌に建つだけあって、本堂や有名な妙見堂までの階段が急である。
 
 本堂を越えると写真を撮り忘れたがこちらも有名な多宝塔がある。
 
 その先をさらに行くと見えてくるのが

 「歌仙祠」だ。
 この中には藤原定家藤原家隆の像が納められている。なお扁額は富岡鉄斎筆とのこと。
 

 この歌仙祠の一歩手前にあるのが「時雨亭跡」碑。明治時代にそれまであった小さな祠を大きな庵室へと改築したようだが、戦前、台風の影響により倒壊してしまったらしい。
 
 なおこの常寂光寺の仁王門の傍らには「定家山荘跡」を示した石碑もある。

 定家の小倉山荘時雨亭は、この常寂光寺と北側に位置するの二尊院境内にまたがる形で建っていたと言われている。また一説には二尊院のさらに北側に位置する厭離庵とも言われている。今回は行かなかったが厭離庵には定家塚あるいは為家の墓が残されている。
 


 展望台まで来ると、嵯峨野そして京都盆地を一望できてこれまた風光明媚。
 

 この周辺は竹林だけではなく紅葉も有名だから、程よい季節ならそれはそれは見事な風景に彩られることだろうなぁ。
 
 
 
 さて再び京都駅に戻り、今度は烏丸線にて烏丸御池駅で下車して御池通を東へ。

 すぐ近くの東洞院通の文字を見ると妙に親近感が湧くw
 

 京都市役所すぐ隣を走る寺町通に入って一路北へ・・・。
 

 細い道をまっすぐ歩くこと数分。
 
 二条通と合流し寺町二条通となってからもさらに少し歩く。
 そういえば梶井基次郎の名作『檸檬』はこの辺りが舞台だ。主人公が檸檬を買ったお店もこの通り沿いに十数年前まであったらしい。
 

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 それはさておき、見落としてしまうくらいひっそりと建つ石碑がある。

 それが「藤原定家京極邸跡」である。
 
 建仁2年(1202)、定家はこの二条京極(冷泉)の邸へと移り住んでいる。『明月記』正月13日条では

「静快已講と相倶に、冷泉北の地の小家に行き向ひ、之を見て帰宅す」

 とあり、また3月11日条では

「女房(妻)を相具し、密々冷泉に入り小食了りて一寝す」

 といった記載がある。
 この邸は後に息子・為家と引き継がれ、定家卿自身は一条京極邸へと移り晩年を過ごしている。
 

 この碑は創業1577年日本最古の製墨会社「古梅園」の傍らに建っているが、「定家様」という独特の墨蹟を残している定家卿だけになかなか意味深である。
 
 
 

 再び寺町通を北へ・・・。
 

 御池通から入って京極邸跡までと同じくらいの距離を進むと見えてくるのが「京都御苑」だ。もともと京都に来ることを予定していれば事前に下調べをしてゆっくり散策などしたかったけれど、今回はスルーで。
 
 
 
 京都御苑を傍らにさらに北へ。南北約1.3km(東西は約700m)もある広大な敷地だけに、緑が延々と目に入るのはなかなか壮観だ。

 
 
 
 そんな御苑の真ん中あたりにあるのがこちら、

 「盧山寺」
 
 2024年大河ドラマ『光る君へ』の主人公・紫式部の邸跡であり『源氏物語』を執筆した場所と言われている。大河ドラマの影響もあってか、この時は放送開始前であったにも関わらず、多くの観光客でにぎわっていた。
 

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 さて盧山寺から更に北へ進むと小学校が見えてくる。

 こちらは京都市立京極小学校で、日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士の母校だ(旧京極尋常小学校を大正8年<1919>に卒業)。
 
 そんな小学校の敷地内に建つのは

 「藤原定家一条京極邸跡」の碑だ。
 
 この一条京極邸は定家卿の終の棲家であり、一説に貞応年間(1222~23)に移り住んだとされている。『明月記』では承久2年(1220)から元仁元年(1224)までの記事を欠いているので正確な日時は確認できないが、大分思い入れのある邸だったのか、『明月記』が再開される嘉禄年間(1225)以降、たびたび登場する。
 一条京極邸の南方の地を買い取ったり(嘉禄元年4月24日条)、南隣の土地を鞍馬の住僧と替地したり(嘉禄元年11月15日条)、土地の拡張や新屋建て替えに関するものが多いが、隣家から出火があるも類焼を免れたこと(嘉禄2年3月11日条)、大雨により鴨川が氾濫し庭が池のようになったこと(嘉禄2年6月3日条)、南隣で人魂が見えたので招魂祭を修させたり(寛喜元年7月16日条)などの記録が残る。嘉禄2年11月13日条では新屋の上棟を行ったことがわかる。
 なお『徒然草』の中にもこの京極邸の記述がある。
 

 
 
 
 さて今回の急遽な京都行もそろそろおしまい。
 

 そんな最後にふさわしい(?)場所へ。
 

 京都御苑の北側、同志社大学に取り囲まれるようにあるこちら、
 
 
 

 現「冷泉家」!
 いつもお世話になっております。そしていつもご先祖様のことをボロクソに言ってて申し訳ありません(笑)
 
 2024年春にはあらたな収蔵庫である「北の大蔵」が竣工予定で、この2023年末でも工事が進められていた。
 
 
 
 そういえば、自分には私淑している歴史上の人物が何人かいる。
 芥川龍之介やエリック・ホッファーなんかもそうだが、そのうちの一人が冷泉為臣だ。
 
 冷泉家23代目にして、現当主・冷泉為人氏の妻・貴実子氏の叔父にあたる。祖父・父の影響もあって国学院大学で古典や和歌を学び『藤原定家全歌集』を刊行したりしたが、太平洋戦争中の昭和19年(1944)、中国大陸で戦死している(このため為臣の妹・冷泉布美子氏の夫・為任氏が婿養子として跡を継ぎ、貴美子氏はその娘にあたる)。
 
 平成17年(2005)、為臣が生前手がけていた藤原定家写本『俊成髄脳』翻刻の原本が冷泉家から見つかり、国の重要文化財に指定された。翻刻本は平成30年(2018)、為臣74回目の命日あたる8月31日に「時雨亭文庫二 俊成髄脳」として和泉書院から出版された。
 

(2003年放送 NHK「京都 冷泉家の八百年~和歌の心、日本の美を守り伝えて~」より)
 
 伝えられているところでは、戦地にあっても「するべき仕事がたくさんの残っているから家に帰りたい」と周囲の人に漏らしていたという。
 するべき仕事……。自身のルーツへの矜持と、先祖が守り抜いてきた大いなる遺産を自分の手で世に出し人々に広めようという情熱が感じられてならない。
 そのうち自分が私淑する他の人物も含め、冷泉為臣についても記事を書いてみたいなぁ。
 
 
 
 そんなこんなで踏み出した突発的な京都行は、無事(?)聖地巡礼となって終わりをつげた。
 相変わらずの尻切れトンボな終わり方(笑)
 
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主な参考文献

・石田吉貞『藤原定家の研究』文華堂書店,昭和32年3月31日
・長岡京市史編さん委員会編『長岡京市史』資料編二・三および本文編一,長岡京市役所,平成4~8年
・藤田盟児「藤原定家と周辺住民の居住形態」『日本建築学会計画系論文報告集』第448号,1993年6月
・冷泉為臣編『藤原定家全歌集』国書刊行会,昭和49年3月21日

などなど……
 

 

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