後鳥羽院project

【運命の四の宮】藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 序奏

2022年01月29日

 本稿は、後鳥羽院生前の出来事のうち、院のその後の人生に影響を与えたであろう事柄を、公卿日記をはじめとした史料より抽出したものである。
 注意事項として、記事内の各天皇および院の呼称は省略している。また本稿タイトルの「運命の四の宮」は、目崎徳衛『史伝後鳥羽院』の一節による。

  ・その1 治承4年~建仁元年(第1巻)
  ・その2 建仁2年~元久元年(第1巻)
  ・その3 元久2年~建永元年(第1巻)
  ・その4 承元元年~承元2年(第2巻)
  ・その5 建暦元年~建暦2年(第2巻)
  ・その6 建保元年~建保6年(第2巻)
  ・その7 承久元年~嘉禎元年・その後(第2・3巻)

目次

    ●【運命の四の宮】藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 序奏
     保元・平治・永暦・応保年間
     長寛・永万・仁安年間
     嘉応・承安・安元年間
     治承元~3年
     
     主な参考文献

 
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 史伝 後鳥羽院〈新装版〉
 

保元・平治・永暦・応保年間

 1156~1162年
 藤原定家 1歳

保元元年 1156年

7月
2日 鳥羽、崩御
 「鳥羽院ウセサセ給テ後、日本國ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ」(『愚管抄』)
5日 保元の乱勃発(『兵範記』)
10日 崇徳、兵を集め戦を議する(『愚管抄』)
13日 崇徳、仁和寺に出頭(『今鏡』『兵範記』)
23日 崇徳、讃岐配流(『兵範記』『愚管抄』)

閏9月
18日 新制七条の宣旨を下す≪保元元年令≫(『兵範記』)

保元2年 1157年

3月
19日 藤原基衡、没す(『吾妻鏡』『長秋記』『台記』)

10月
8日 新制三十五条の宣旨を下す(『兵範記』『今鏡』等)

保元3年 1158年

8月
11日 後白河譲位、二条践祚。「仏ト仏トノ評定」(『兵範記』8月4日条)

平治元年 1159年

2月
21日 藤原育子を皇后となし、妹子内親王を中宮となす(『山槐記』)

4月
20日 平治と改元(『百錬抄』)

10月
25日 式子内親王を斎院となす(『兵範記』)

12月
9日 平治の乱勃発。藤原信頼・源義朝ら、院御所三条殿を襲撃す(『百錬抄』『平治物語』)
10日 信西(藤原通憲)の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)を捕縛(『一代要記』)
13日 信西、自害す(『愚管抄』)
14日 藤原信頼、後白河・二条を擁し臨時除目(『愚管抄』『平治物語』)
25日 二条、平清盛の六波羅の第に御幸(『百錬抄』)
26日 平清盛、藤原信頼らを討たしむ≪六波羅合戦≫(『百錬抄』『一代要記』)
27日 藤原信頼、六条河原で斬られる(『愚管抄』)

永暦元年 1160年

1月
4日 源義朝・鎌田政清、殺される(前年12月29日とも)(『愚管抄』『兵範記』等)
9日 義朝・政清の首、獄門に晒される(『百錬抄』)
10日 永暦と改元(『百錬抄』)
26日 太皇太后・藤原多子、二条に入内す(『今鏡』)

2月
9日 平清盛の継母・池禅尼の嘆願により源頼朝、助命される(『愚管抄』)
20日 後白河の逆鱗に触れ、藤原経宗・惟方、捕縛される(『百錬抄』)
22日 信西の子等、帰京を許される(『愚管抄』)

3月
11日 源頼朝を伊豆に配流(『百錬抄』)

6月
20日 平清盛を正三位に叙す(『一代要記』)

8月
19日 中宮・妹子内親王、病により出家(『山槐記』)

11月
23日 美福門院(鳥羽皇后・藤原得子)、崩御(『山槐記』)

応保元年 1161年

9月
3日 後白河皇子・憲仁(高倉)産まれる(『山槐記』)
4日 応保と改元(『百錬抄』)
15日 憲仁を皇太子となそうと謀り、二条は平時忠・教盛・藤原成親・坊門信隆を解官(『山槐記』)

12月
16日 暲子内親王、八条院となす(『山槐記』)
17日 藤原忠通養女・育子、入内す(『山槐記』)

応保2年 1162年
 藤原定家 1歳

2月
19日 藤原育子を中宮となす(『今鏡』)

3月
7日 藤原経宗等を召還す(『山槐記』『百錬抄』)

6月
23日 呪詛の罪により、平時忠・源資賢を流罪とす(『百錬抄』『愚管抄』)

 ※この年、藤原定家産まれる

長寛・永万・仁安年間

 1163~1168年
 藤原定家 2~7歳

長寛元年 1163年
 藤原定家 2歳

3月
29日 長寛と改元す(『百錬抄』)

7月
25日 興福寺衆徒、延暦寺衆徒と抗争し別当・恵信を追放す(『百錬抄』)

11月
28日 近衛の遺骨を知足院より美福門院御塔に奉安す(『百錬抄』)

長寛2年 1164年
 藤原定家 3歳

7月
22日 二条皇子・尊恵法親王、産まれる(『百錬抄』)

8月
26日 崇徳、崩御(『神皇正統記』『今鏡』等)

9月
18日 崇徳を白峯にて荼毘に伏す(『白峯寺縁起』)
 ※この月、平清盛『平家納経』を厳島社に奉納(全体の完成は仁安2年)

11月
14日 二条皇子・順仁(六条)産まれる(『一代要記』)

12月
17日 後白河の宿願により蓮華法院造営(『百錬抄』)

永万元年 1165年
 藤原定家 4歳

2月
15日 藤原伊道、薨去(『山槐記』等)

6月
5日 永万と改元(『山槐記』)
17日 順仁、立太子定(『百錬抄』)
25日 順仁、親王宣下・立太子。二条譲位、六条践祚(『顕広王記』『百錬抄』)

7月
28日 二条、崩御(『顕広王記』等)

12月
16日 後白河皇子・以仁、元服ノ儀(『顕広王記』)
25日 憲仁を親王となし、平清盛を親王勅別当とす(『顕広王記』『百錬抄』)

仁安元年 1166年
 藤原定家 5歳

7月
26日 藤原基実、薨去(『百錬抄』『一代要記』)
 →二条親政派、瓦解

8月
27日 仁安と改元す。除目あり、九条兼実を左近衛大将、藤原忠雅を右近衛大将、藤原光忠・宗家を権中納言に任ず(『山槐記』)

10月
10日 憲仁、立太子し、九条兼実を東宮傳、平清盛を春宮大夫に補す(『玉葉』『愚昧記』等)

11月
11日 平清盛を内大臣に任ず(『兵範記』) 
13日 後白河皇子・尊性(道法法親王)産まれる(『仁和寺御伝』)

仁安2年 1167年
 藤原定家 6歳

1月
19日 法性寺殿、造営される(『愚昧記』)

2月
11日 平清盛を太政大臣に任ず(『玉葉』等)

5月
10日 平重盛に諸道の海賊を追補せしむ(『山槐記』『兵範記』)

 ※12月24日 藤原顕広、「俊成」と改名す(『公卿補任』『一代要記』)

仁安3年 1168年
 藤原定家 7歳

2月
11日 平清盛、病により出家す(『玉葉』)
19日 六条譲位、高倉践祚(『玉葉』『百錬抄』等)

3月
14日 皇太后(近衛中宮)藤原呈子を九条院となす(『玉葉』)
20日 後白河女御・平滋子を皇太后となす(『兵範記』等)

8月
27日 後白河皇女・惇子を内親王となし斎宮とす(『兵範記』)

嘉応・承安・安元年間

 1169~1176年
 藤原定家 8~15歳

嘉応元年 1169年
 藤原定家 8歳

3月 この月、後白河『梁塵秘抄』成立か?

4月
8日 嘉応と改元(『兵範記』)
12日 平滋子を建春門院となす(『兵範記』)

6月
17日 法住寺殿において後白河出家(『玉葉』『兵範記』)

10月
20日 二条皇女・僐子を内親王となし斎院とす(『愚昧記』)

12月
23日 延暦寺衆徒、藤原成親の配流を要求≪嘉応の強訴≫(『玉葉』『愚管抄』)

嘉応2年 1170年
 藤原定家 9歳

4月
20日 後白河と平清盛、東大寺にて受戒(『玉葉』『兵範記』)
→鳥羽・藤原忠実の同時受戒の例にならう(『台記』康治元<1142>年5月5日条)
21日 平重盛、藤原成親を還任(『玉葉』)

9月
20日 後白河、福原に御幸し宋人を御覧「我ガ朝延喜以来未曽有ノ事ナリ。天魔ノ所為カ」(『玉葉』)
→宇多天皇遺戒以来の禁祀

10月
21日 元服定により参内途中の松殿基房、平重盛配下の武士に襲撃される≪殿上乗合事件≫高倉元服ノ儀延引(『玉葉』『愚管抄』)
30日 後白河、藤原光能を福原の清盛のもとへ遣わす(『玉葉』)

12月
9日 松殿基房を太政大臣に任ず(『玉葉』『愚管抄』)

承安元年 1171年
 藤原定家 10歳

1月
3日 高倉、元服ノ儀(『玉葉』『愚管抄』)

4月
21日 承安と改元(『百錬抄』)

7月
26日 平清盛、羊5頭と麝1頭を後白河に献ず(『百錬抄』)

10月
23日 後白河、福原に御幸(『玉葉』『百錬抄』)

12月
2日 平清盛娘・徳子、後白河の猶子となる(『玉葉』『兵範記』)
14日 平徳子、入内(『玉葉』『兵範記』)
→待賢門院の例にならう
「カノ例頗ル相叶ハザル由、世以テコレヲ傾ク<11月28日条>」「今度已ニ姉妹ニ成ルベキヤ、以テ忌ム有リ如何<12月14日条>」(『玉葉』)

 ※この年、藤原公経、源通具、藤原保季産まれる。

承安2年 1172年
 藤原定家 11歳

2月
10日 藤原忻子を皇太后、藤原育子を皇后、平徳子を中宮となす(『玉葉』)

5月
5日 惇子内親王、薨去(『玉葉』『百錬抄』)
→現役の斎宮薨去は円融在世時(天延年間)の隆子内親王以来2例目

9月
16日 宋の勅使、後白河・平清盛に供物を献ず「"国王賜フ"頗ル奇怪<同月17日条>」(『玉葉』)
27日 「今度ノ供物、彼ノ国王ニ非ズ、明州判史(趙伯圭)ノ供物ナリ。(中略)其ノ牒状、大唐ヨリハ天皇ニ送上ト書キ、彼ノ国王ヲハ天子ト書キ、我朝ヨリハ又送ト書キ、相互ニ差別無キニ、今度ノ所為、言足ラズ。(中略)尤モ悲シムベキ事ナリ云々」(『玉葉』)

承安3年 1173年
 藤原定家 12歳

3月
13日 後白河、宋国に返牒す。平清盛も剣及び物具を贈る(『百錬抄』)

5月
20日 延暦寺僧徒、蜂起し興福寺荘園の北国にあるものを押妨す(『多武峰略記』)

6月
23日 「昔ヨリ以降、南北大衆蜂起ノ中、今度ヨリ勝ルコトナシ」(『玉葉』)
25日 興福寺の僧徒、多武峰を襲い藤原鎌足の御影堂を焼く(『玉葉』『吉記』)
29日 興福寺別当・尋範らを解官(『多武峰略記』)

8月
15日 皇后・藤原育子、崩御(『玉葉』『百錬抄』)

10月
21日 最勝講院、完成す(『玉葉』『百錬抄』)
29日 覚興、配流(『玉葉』)

11月
3日 興福寺の僧徒、覚興の召還と七大寺の荘園還付を強訴(『玉葉』『一代要記』)
11日 後白河、東大寺・興福寺以下南都15寺・諸国末寺の荘園を没官(『玉葉』『百錬抄』)

 ※この年、明恵(高弁)、親鸞産まれる。

承安4年 1174年
 藤原定家 13歳

3月
16日 後白河、建春門院を伴い、福原・厳島社に御幸(『吉記』)

7月
8日 久我雅通が右大将を辞す。平重盛を右大将に任ず(『玉葉』『顕広王記』)

 ※これ以前、『今鏡』成立か?

安元元年 1175年
 藤原定家 14歳

2月
27日 久我雅通、薨去(『一代要記』)

7月
28日 安元と改元(『玉葉』『山槐記』)

11月
10日 藤原師長を内大臣に任ず(『玉葉』)
28日 平重盛を大納言、藤原成親を権大納言に任ず(『玉葉』)
 
 ※この年、法然が専修念仏を唱える。

安元2年 1176年
 藤原定家 15歳

3月
4~6日 後白河、法住寺殿にて五十賀(『玉葉』『顕広王記』)

4月
27日 後白河、延暦寺にて天台の戒を受ける(『玉葉』『吉記』)

6月
13日 高松院(二条中宮・妹子内親王)崩御(『玉葉』『吉記』)

7月
8日 建春門院(平滋子)、法住寺殿にて崩御(『玉葉』『吉記』)
17日 六条、源邦綱の東山第にて崩御(『玉葉』『顕広王記』)

9月
19日 九条院(近衛中宮・藤原呈子)崩御(『玉葉』『顕広王記』)
 ※28日 藤原俊成、病により出家。法名・釈阿(『玉葉』『一代要記』)

10月
23日 後白河皇子・道法法親王を高倉の猶子とする(『玉葉』)
 ※この月、工藤祐経の襲撃を受け、伊藤祐親および嫡男・河津祐泰が射殺される(『吾妻鏡』『曾我物語』)

11月
2日 後白河皇子・承仁法親王を高倉の猶子とする(『玉葉』)

12月
5日 除目。藤原成範・平頼盛を権中納言、西園寺実宗・藤原長方を参議、藤原定能・光能を蔵人頭に任ず「希代ト謂フベシ」(『玉葉』)

治承元~3年

 1177~1179年
 後鳥羽院 1歳
 藤原定家 16~18歳

治承元年 1177年
 藤原定家 16歳

1月
24日 平重盛を左近衛大将、平宗盛を右近衛大将に任ず(『玉葉』『愚昧記』)

3月
6日 源為朝、大島で自害(『保元物語』)
11日 高倉三位(藤原成子)薨去(『愚昧記』)
14日 後白河、福原に御幸(『玉葉』『顕広王記』)
18日 千僧供養を行い平滋子の菩提を弔う(『百錬抄』)
29日 藤原師経を備前に配流(『玉葉』『愚昧記』)

4月
13日 延暦寺衆徒、神輿を奉じて藤原師高配流を求める≪安元の強訴≫(『玉葉』)
14日 衆徒、蜂起す「訴訟ニアラズ。已ニ謀反ノ儀ニ同ジ」(『玉葉』17日条)
   高倉・平徳子、法住寺殿に御幸「禁中ノ周章、上下男女ノ奔波、偏ニ内裏炎上ノ時ノ如シ」
20日 藤原師高を尾張へ配流(『玉葉』『愚昧記』『仲資王記』)
28日 安元の大火(『方丈記』等)

5月
4日 天台座主・明雲を捕縛す(『顕広王記』『仲資王記』)
5日 明雲を天台座主から解却(『玉葉』『愚昧記』等)
11日 明雲の罪名を勘申せしめ所領を没収す(『玉葉』『愚昧記』等)
16日 延暦寺衆徒、明雲の優免を請うが後白河拒否(『愚昧記』)
21日 明雲を伊豆へ配流(『玉葉』『愚昧記』等)
23日 延暦寺僧徒、配流途中の明雲を奪還(『玉葉』『愚昧記』等)
27日 平清盛、福原より入京(『玉葉』『顕広王記』)
29日 武士動員(『玉葉』)
   多田行綱、西光・藤原成親らが平氏打倒の謀議を企んでいたことを平清盛に密告す≪鹿ヶ谷の陰謀≫(『保暦間記』『平家物語』等)

6月
1日 藤原成親・成経・西光らを捕縛。藤原光憲・範玄ら失踪す(『玉葉』『愚昧記』『愚管抄』等)
2日 藤原成親を備前へ配流。西光を斬首(『玉葉』『愚管抄』等)
3日 俊寛・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼らを捕縛(『玉葉』『顕広王記』等)
6日 明雲の配流を解く(『玉葉』『顕広王記』等)
9日 藤原師高らを斬殺す(『百錬抄』)
 ※この月、藤原成経・平康頼・俊寛を鬼界島に、蓮浄を佐渡に、中原基兼を伯耆に、惟宗信房を阿波に、平佐行を美作へ配流(『愚管抄』)
  九条兼実、後白河に兵仗を辞せんことを請うが聴き入れられず(『玉葉』)

7月
9日 藤原成親を斬殺す(『顕広王記』)
29日 「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改める(『玉葉』『保暦間記』等)

8月
4日 治承と改元(『玉葉』『愚昧記』等)

11月
6日 高倉皇女・範子内親王(坊門院・土御門准母)産まれる(『顕広王記』『仲資王記』)

治承2年 1178年
 藤原定家 17歳

1月
20日 後白河が園城寺で伝法灌頂を受けることを聞き、延暦寺僧徒蜂起す(『玉葉』『山槐記』)
   僧綱を遣い僧徒を諭止せしむ。平清盛を召すが応じず。後白河は灌頂を断念(『山槐記<1月25日条>』『百錬抄<2月1日条>』『玉葉<2月5日条>』等)

5月
16日 延暦寺僧徒の最勝講への公請を対し州(『玉葉』『山槐記』)
24日 平時忠、高倉へ平徳子の懐妊を伝える(『山槐記』)

閏6月
17日 治承の新制十七箇条を制定(『玉葉』)

7月
3日 大赦により藤原成経・平康頼を召還す(『源平盛衰記』)

10月
4日 後白河、平清盛に命じ兵を遣わし延暦寺学徒を援護し堂衆を討たしむ(『玉葉』『顕広王記』)

11月
12日 高倉皇子・言仁(安徳)産まれる(『玉葉』『山槐記』等)

12月
8日 言仁、親王と成す(『玉葉』『顕広王記』等)
15日 言仁を皇太子となす(『玉葉』『愚昧記』等)

治承3年 1179年
 藤原定家 18歳

1月
11日 高倉皇女・功子内親王、母・師局薨去に伴い野宮より退下。その後消息不明(『山槐記』『百錬抄』)

2月
28日 高倉皇子・守貞(後高倉)産まれる(『山槐記』)

4月
11日 高倉皇子・惟明産まれる(『山槐記』)
17日 九条兼実の子・良経、元服ノ儀(『玉葉』『山槐記』)
18日 高倉皇女・潔子内親王産まれる(『山槐記』)

6月
17日 平盛子(平基実の娘。高倉准母)薨去(『玉葉』『山槐記』)
21日 後白河、小松第に重病の平重盛を見舞う(『山槐記』)

7月
29日 平重盛、薨去(『玉葉』『山槐記』)

8月
30日 治承の新制三十二箇条を制定(『玉葉』『百錬抄』)

10月
9日 除目。越前、院分国となる。松殿師家を権中納言に任ず「法皇ノ過怠」「博陸ノ罪科」(『玉葉』11月15日条)

11月
14日 平清盛、兵を率い入京≪治承三年の政変≫(『玉葉』)
15日 松殿基房・師家を罷免し、近衛基通を関白・内大臣・氏長者に任ず(『玉葉』『兵範記』等)
16日 明雲を天台座主に還任す(『玉葉』『山槐記』)
17日 平清盛、後白河近臣の藤原師長ら以下39名を解官させる(『玉葉』『山槐記』)
18日 松殿的房を大宰権師とし、藤原師長を尾張に、源資賢を丹波に、平業房を伊豆に配流(『玉葉』『山槐記』)
20日 平清盛、後白河の院政を停め鳥羽殿に幽閉す(『玉葉』『山槐記』)

主な参考文献

平信範『兵範記』(増補史料大成18~22),臨川書店,1965
藤原頼長『台記』(増補史料大成23~25),臨川書店,1975
中山忠親『山槐記』(増補史料大成26~28),臨川書店,1965
三条実房『愚昧記』(大日本古記録),岩波書店,2010
石田実洋他校注『一代要記』(続神道大系・朝議祭祀編6~8),神道大系編纂会,2006

 その他の参考文献はコチラ

-後鳥羽院project
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