引き続き、治承四五年記のうち治承五年について読んでいこうと思います。
目次
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【凡例】
治承五・養和元年(1181)<定家20歳・従五位上侍従>
・式子内親王との邂逅(正月3日、九月二十七日条)
・高倉院、崩御(正月十四・二十日、閏二月三日条)
・平清盛、薨ず(閏二月四・五日条)
・姉の死(閏二月六・十二・二十四日、三月九日条)
参考文献
【凡例】
・本文、訓読、意訳、注釈とコメントの順で記した。
・底本には冷泉家時雨亭文庫叢書『翻刻 明月記』(全三巻)を用い、適宜、国書刊行会『明月記』(全三巻)を参照した。また訓読については今川文雄『訓読明月記』河出新社書房(全七巻)を参照している。
・本文の字体は底本に準拠するが、環境依存文字など一部は通用の字体に直した。また割書は〔 〕、欠損文字については○で示し、頭書・上欄補書は基本的に省略したが適宜注釈を付した。また中略部分については、本文などでは《中略》、注釈などでは"……"と示す。
・人物の官位は記事当時のものとする。
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式子内親王との邂逅
(正月)三日、天晴、参院、如昨日、参右兵衛督御許〔被出了〕、奉謁女房、次参三条前斎宮〔今日初参、依仰也、薫物馨香芬馥〕、次参中御門、同奉謁女房、申刻帰之後、坤有火、依仰又馳向六条楊梅西洞院、秉燭退帰、
[訓読]
(正月)三日、天晴。院に参る。昨日のごとし。右兵衛督の御許に参る〔出でられ了んぬ〕。女房に謁し奉る。次いで三条前斎宮に参る〔今日初参す。仰せによるなり。薫物、馨香芬馥たり〕。次いで中御門に参る。同じく女房に謁し奉る。申の刻帰るの後、坤に火あり。仰せにより又六条楊梅西洞院に馳せ向かう。秉燭、退帰す。
[意訳]
三日、晴れ。院に参る。昨日と同じ。右兵衛督の家に参ったがすでに外出しておられた。そこで女房にお会いした。次に三条前斎宮に参った。父からの仰せによるもので今日が初参である。薫物の良い香りが漂っていた。次に中御門に参る。ここでも同じく女房にお会いした。申の刻に帰ったが、坤の方角に火事があった。父の仰せにより再び六条楊梅西洞院に急いで向かった。暗くなってから退出し帰った。
[注釈]
・右兵衛督:藤原家通。藤原重通の子で実父は藤原忠基。正三位参議。六角小路に邸宅があった。
・(右兵衛督)女房:定家の同母姉・祇王御前。高松院新大納言・六角尼上とも。
・三条前斎宮:後白河院第三皇女の式子内親王。嘉応元年(一一六九)に斎院退下後は母・藤原成子の実家である高倉三条第に身を寄せていた。
・中御門:定家の継父・藤原宗家の邸宅をさす。
・(中御門)女房:藤原宗家室で定家の同母姉・八条院按察。
・申刻:十六時または十五時から十七時のあいだ。
・坤:西南の方角
・六条楊梅西洞院:御子左家近親者の家と推定されている。
メモ
俊成のいいつけにより、定家が初めて式子内親王のもとに参じた日の記録。以降定家は式子内親王に仕えることになるが、この時点ですでに定家の異母姉・前斎院女別当と同母姉・龍寿御前(前斎院大納言)が女房として出仕している。
さて定家と式子内親王といえば、謡曲「定家」に代表されるところの密かな恋愛物語の伝承が有名だが、現在までにその伝承はほぼ否定されている。だが、人物に対して「薫物馨香芬馥」といった描写をするのは『明月記』内でも極めてまれだ。また晩年の内親王を頻繁に見舞い病状を事細かく書き残していたり、死後一年経つまでその死について一切触れていないなど、なんとも意味深な書き方をしている。そのため中世以来の諸伝承および諸説において、二人の背景にある恋愛的感情の素地を強めたのかもしれない。もっとも現代の諸研究でも賛否ある。で、個人的な見解としては、定家にとって式子内親王は恋愛対象というより「ありうべき高貴な女性像」と写ったのではないかと思っている。頻繁な出仕や見舞いは単に主従関係のそれであろうし、特別にその言動や雰囲気を書き留めているのは式子の中にシンボル的なものを見出していたからだろうと推測する。定家作といわれる『松浦宮物語』などにその影響を見出す指摘も多い。
ところでこの日、式子のもとへ参ずる前後に家通・宗家の邸にも顔を出している。それぞれの「女房」はいずれも定家の同母姉なので、身内へのあいさつ回りといったところだろうか。ついで夜には火事があるが、この時、俊成・定家親子は高辻京極邸に住んでおり、見舞いに行った六条楊梅西洞院はちょうど西南の方角にあたる。この邸に誰が住んでいたかは詳らかではないが、八条院の仏事の際に必ずといっていいほど立ち寄っていることから、八条院に仕える女房ではないかとする説がある。
(九月)廿七日、天晴、入道殿、如例引率、令参萱御所斎院給、有御弾箏事云々、
[訓読]
二十七日、天晴。入道殿、例のごとく引率し、萱の御所斎院に参らしめ給ふ。御弾箏の事ありと云々。
[意訳]
二十七日、晴。父がいつものように引率して萱の御所の斎院のもとへ参られた。箏をお弾きになられたという。
[注釈]
・入道殿:藤原俊成をさす。
・萱御所斎院:式子内親王をさす。後白河院の法住寺殿内の殿舎。
メモ
正月の記事では高倉三条第に住んでいた式子だが、この時すでに後白河院御所法住寺殿内の萱御所に移り住んでいたようだ。この後、八条院(暲子内親王)のもとへと移っている。
さてこの日の記述はすべて聞き書きである。俊成は出かける際に必ずといっていいほど子女を同伴している。この日も誰かしらを伴って式子のもとへ参ったのだろう。そこで俊成は式子の弾く箏を聞いたというが、わざわざその言動を書き留めているあたり、なんとも思わせぶりだと感じてしまう。
高倉院、崩御
(正月)十四日、天晴、未明、巷説云、新院已崩御、依庭訓不快、日来不出仕、今聞此事、心肝如摧、文王已没、嗟乎悲矣、倩思之、世運之尽歟、健御前依懇切、密々求牛車送之、被参池殿、謁或女房帰来、被語云、至于今暁叡慮太分明、夜前、実全僧都〔験者〕、依可造山上住房、為方違可退出由申、若州抑留之、仍申不可罷出由、而殊被仰云、山上方忌尤不便、早賜暇可令方違也、依再三仰、僧都退出、其後進泰山府君都状、召脂燭、分明御覧、又依人々申、聊召寄御膳、御寝之際、御気頗有奇事、奉驚見之間、事已危急、仍以泰通朝臣令申院御方、即渡御、打鳴金、雖有御念仏、不及御合眼云々、日来法皇渡御、深喜悦思食、乍臥有御対面、御言語如平常、諮詢互懇切云々、付視聴、催非慟之思、須馳参之処、末座者更不可然由、深以難渋、是又前世之宿報耳、只以此説、僅散不審、今夜渡御邦綱卿清閑寺小堂、抑是六条院御墓所堂云々、如何々々、聞及事不幾、夜私出、交雑人見物、落涙千万行、
[訓読]
十四日、天晴。未明、巷説に云はく、新院すでに崩御す。庭訓不快により、日来出仕せず。今この事を聞き、心肝摧くがごとし。文王すでに没す。嗟乎悲しきかな。つらつらこれを思ふに、世運の尽くるか。健御前懇切により、密々牛車を求めてこれを送る。池殿に参られ、或る女房に謁し帰り来たる。語られて云はく、今暁に至るまで叡慮はなはだ分明。夜前、実全僧都〔験者〕、山上に住房を造るべきにより、方違へのため退出すべき由を申す。若州これを抑留す。仍って罷り出づべからずの由を申す。而るに殊に仰せられて云ふ、山上の方忌みもっとも不便、早く暇を賜ひて方違へせしむべきなりと。再三の仰せにより、僧都退出す。その後泰山府君の都状を進む。脂燭を召し、分明に御覧ず。又人々申すにより、いささか御膳を召し寄すも、御寝の際、御気頗る奇しき事あり。驚き見奉るの間、事すでに危急。よって泰通朝臣をもって院の御方に申さしむ。即ち渡御あり。金を打ち鳴らし、御念仏ありといへども、御合眼に及ばずと云々。日来、法皇渡御し、深く喜悦に思し食す。臥しながら御対面ありて、御言語平常のごとし、諮詢互ひに懇切と云々。視聴くに付け、非慟の思ひを催す。須く馳せ参ずべきの処、末座の者更に然るべからずの由、深くもって難渋す。これ又前世の宿報なるのみ。ただこの説をもって、僅かに不審を散ず。今夜、邦綱卿の清閑寺小堂に渡御。そもそもこれ六条院の御墓所堂と云々。如何々々。聞き及ぶ事幾ばくならず。夜、ひそかに出で、雑人に交はり見物す。落涙千万行。
[意訳]
十四日、晴。巷の噂では、きょう未明、高倉院は崩御されたという。父が難色を示すので最近は出仕していなかった。今このことを聞いて胸が押しつぶされるようだ。文王が没してしまった。ああなんて悲しいことだ。よくよく思ってみても、世の命運が尽きてしまったのではないか。健御前たっての願いで牛車を密かに手配し送った。姉は池殿に参られて或女房にお会いし帰ってきた。おっしゃるには、今朝方まで高倉院の意識はまことにはっきりとされていた。昨日夕方、験者を勤める実全僧都が、比叡山山上に住房を造るので方違えのため退出したいと申し出た。だが若州がこれを引き留めた。すると高倉院は「山上の方忌みはまことに不便であり、早く暇を与えて方違えさせてやるべきだ」と再三にわたって仰せになったので、僧都は退出した。その後、泰山府君へ奉る都状をお持ちすると、脂燭を召してしっかりと御覧になった。また周りの人々の勧めもあって、少々お食事をお召し上がりになったが、御寝の際、御様子が急変した。驚き見守り申し上げるも、もはや危篤の状態だった。そこで泰通朝臣を通じて後白河院へお知らせすると、すぐにいらっしゃった。鉦を打ち鳴らし御念仏なさったが、高倉院は御眼を見交わすこともなかったという。日頃から後白河法皇がいらっしゃると深くお喜びになり、寝たままの御対面だったが御言葉を平常通りに交わされ、互いに心を尽くしてお話しされていたという。そうした様子を見聞するにつけ、深い悲しみが満ちてくる。なにがなんでも馳せ参じなければならないところだが、末座の者はよろしくないということで困り果ててしまった。こうなるのも前世からの宿報なのだろう。ただ姉の話を聞いて、わずかだが心の気がかりが晴れた。今夜高倉院の遺骸は邦綱卿の清閑寺小堂へお渡りになった。もともとそこは六条院の御墓所であるという。いかがなものか。聞き及んだことはそう多くない。夜、ひさかに家を出て雑人の中に紛れて葬列を見物した。涙がとめどなく溢れた。
[注釈]
・文王已没:『論語』からの表現を借り、高倉院を優れた君主として賞賛している。
・健御前:定家の同母姉。
・池殿:六波羅の平頼盛邸。
・実全:藤原公能の子である延暦寺僧。権大僧都。安徳帝の護持僧。
・若州:若狭局・平政子。建春門院の乳母で高倉院女房。丹後局(高階栄子)の母。
・泰山府君都状:中国・泰山信仰を起源とする神へ、息災延命を祈願する祭文。
・泰通朝臣:藤原成通の子で、実父は藤原為通。正四位下左中将。高倉院の近臣。
・邦綱:藤原盛国の子。正二位前大納言。五条大納言とも。
・清閑寺:延暦二十一年(八〇二)創建。長徳二年(九九六)に勅願寺に列せられる。南北朝時代に天台宗から真言宗に宗旨替えしたとされる。
・六条院:第七九代天皇。二条天皇第二皇子。安元二年(一一七六)七月十七日崩御。諱は順仁(のぶひと)。歴代最年少で即位している。
メモ
長い文だがすべて引用した。若き定家がもっとも尊敬した主人である高倉院崩御の日の記録。冒頭の「庭訓不快」は昨年末の「庭訓制止」と合わせ、若く感じやすい息子が高倉院の死にのめりこみ出家などしてしまわないか憂慮した、あるいは危機的政治状況の渦中に巻き込まれないよう配慮したためという指摘は数多い。現にそのあとにつづく定家の悲嘆の度合いはあまりにも深く、当時の俊成としてはそんな息子の思い入れも十分わかっていた上での処置だったのだろう。
健御前に関しては、高倉院が天皇即位をした同年に建春門院(高倉院の母・平滋子)へ出仕しはじめている。健御前はその後八条院に仕えるが、当時の同僚の中には高倉院に仕えた者も多いことが『たまきはる』に記されている。姉も慮ってか、身動きの取れない弟の代わりに状況を把握しに行ったのかもしれない。高倉院崩御の際の様子は『玉葉』二月二十九日条などにも詳しい。
高倉院、宝算二十一。実年齢でいえば十九歳である。身分の差こそあれ、定家とはほぼ同年代。なにより容姿端麗で人柄がよかったことがさまざまな史料から知られている。だがその人生はあまりにもストレスの多いものだったろう。なにせ傍らでは後白河法皇と平清盛が常に牽制しあっていた。近年の研究では、そんな状況下でも積極的に政治を推し進めようとしていたのではないかとする説も出されている(佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』)。
高倉院の亡骸は夜になって清閑寺に運ばれた。ここは清水寺に代表される清水山の中腹に位置している。ここで定家はすでに六条院の墓所となったところに高倉院が葬られることを「如何々々」と訝しがっている。このことについては、六条院と高倉院の乳母が共に藤原邦綱の娘(成子と邦子)であったためという説もあるが、個人的に、この寺でかつての高倉院の寵姫・小督局が出家したからではなどと勘ぐってしまう。小督局は藤原成範の娘で、寵姫を亡くし悲嘆する高倉院を慰めようと中宮・徳子(建礼門院)が紹介したという。絶世の美女でさらに箏の名手であったこともあり、小督局は高倉院の寵愛を一身に集めた。だがそのことが清盛の逆鱗に触れ、小督局は範子内親王(坊門院・土御門帝の准母)を出産するも宮中を追われ清閑寺で出家させられ、嵯峨に隠棲したといわれている(『たまきはる』、『平家物語』巻六「小督の事」など)。『源平盛衰記』巻二十五「小督局の事」では、「小督局の、心ならず尼になされたる所」なので「朕をば必ず清閑寺へ送り納めよ」と高倉院が遺言したと記している。
宮中から追われた小督局の消息はほとんど詳らかではないが、定家は後年、病床の小督局を見舞っている。その折、定家は小督局を「高倉院督殿〔皇后宮御母儀〕」と書いている(『明月記』元久二年閏七月二十一日条)。娘の範子内親王は土御門帝の准母から准母立后により皇后(名誉職としての尊称皇后)となっている。
(正月)廿日、天晴、適依放免、初参旧院、依右武衛御説、垂纓、衣冠、《以下略》、
[訓読]
二十日、天晴。たまたま放免によりて、初めて旧院に参る。右武衛の御説により、垂纓、衣冠。《以下略》
[意訳]
二十日、晴。たまたま父の許しを得て、崩御後はじめて高倉院の旧御所に参った。右武衛の意見によって、垂纓・衣冠を着した。《以下略》
[注釈]
・旧院:故高倉院御所の六波羅池殿をさす。
・右武衛:藤原家通をさす。
・垂纓(すいえい):纓と呼ばれる長細い薄布を背中へ垂らした冠。
・衣冠:宮中での勤務用の服装。
メモ
崩御後六日にしてようやく俊成の許しを得て、定家は高倉院の旧御所へ参った。「右武衛」は先の注釈通り同母姉・祇王御前の夫である藤原家通をさし、定家はしばしば故実についての教えを乞うている(『明月記』治承四年二月十一日条がその初出)。そしてその故実だが、以下略とした部分にその日参上した公家たちとその装束について細かく記されている。特に皇族の喪(諒闇)に際し、この日の記述には諒闇時の装束いわゆる「凶服」について個々人別に記されている。臣下のそれについては材質や色以外、通常の装束である「吉服」とほとんど変わらないが、身分や職掌はもちろん立場などから各人ごとで何を身に付けるか細かく異なっていた。また亡者と近しい者の一部には朝廷から「素服」と呼ばれる喪服が支給され、この日の記述にも素服を賜った公家の名前が列挙されている。
こうした有識故実の記録こそ公卿日記の真骨頂でもあるのだが、なんせ煩雑で難解である。正直自分自身もまだまだ勉強不足のため、この部分は割愛した。ちなみに翌二月十一日条では初めて諒闇の狩衣を着した記録がみえる。
閏二月小、三日、天晴陰、御正日、束帯、参旧院、《中略》、与公衡侍従於閑所清談、是只無常悲也、夜景退出、
[訓読]
閏二月小、三日、天晴陰る。御正日、束帯し旧院に参る。《中略》公衡侍従と閑所に於いて清談す。是れ只無常の悲しみなり。夜景、退出す。
[意訳]
閏二月小月、三日、晴れたり曇ったり。高倉院の御正日なので、束帯を着て旧院に参った。《中略》公衡侍従と静かな場所で清談した。ただただ無常の悲しみを語り合うばかりだった。夜になって退出した。
[注釈]
・御正日:四十九日のこと。
・公衡:藤原(徳大寺)公能の子。正五位下侍従。定家の従兄。
メモ
正月二十日の「初参旧院」以降、記録が残る限り定家はほぼ毎日のように六波羅池殿へ参じている。そしてこの日、四十九日である。例によって中略部分は、御正日仏事の内容と参列した公卿のことや装束について記されている。この日は御正日仏事のあと、毎日の仏事も執り行われ、更にそのあと夜になってからだろうか、公衡と語り合っている。公衡の母は藤原俊忠の娘・豪子であり、俊成の異母妹(生母不明のため正確にはわからない)にあたる。また年齢も近く、和歌をやりとりするなど親しい間柄だった。「只無常悲也」というのだから、きっと高倉院の話題だったのだろう。『玉葉』では翌三月六日に除服したことを記している。
平清盛、薨ず
(閏二月)四日、雨降、巷説、禅門大相国不予云々、
[訓読]
四日、雨降る。巷説、禅門大相国不予と云々。
[意訳]
四日、雨が降った。巷の噂では禅門大相国の容体が思わしくないという。
[注釈]
・禅門大相国:平清盛。
(閏二月)五日、天晴、去夜戌時、入道前太政大臣已薨之由、自所々有其告、或云、臨終動熱、悶絶之由巷説云々、又邦綱卿重病之由云々、
[訓読]
五日、天晴。去る夜戌の時、入道前太政大臣已に薨ずるの由、所々よりその告あり。或いは云はく、臨終動熱、悶絶の由巷説と云々。又邦綱卿重病の由と云々。
[意訳]
五日、晴。昨晩戌の時に入道前太政大臣が亡くなられたと、方々から知らせがあった。或る人が言うには、臨終の際に激しい熱に見舞われ悶絶していたと巷の噂になっているという。また邦綱卿も重病だという。
[注釈]
・入道前太政大臣:平清盛。
・邦綱卿:藤原盛国の子。正二位前大納言。平重衡の舅で親平氏方の中心。
(閏二月)十五日、天晴、蔵人頭重衡朝臣自宇治道発向、赴関東〔遭喪、中陰之内、禅門遺言云々〕、
[訓読]
十五日、天晴。蔵人頭重衡朝臣、宇治道より発向し、関東に赴く〔喪に遭ひ、中陰の内。禅門の遺言と云々〕。
[意訳]
十五日、晴。蔵人頭重衡朝臣が宇治道から出発し、関東に向かった。父親の死に逢い、中陰の内である。だがこれは禅門の遺言だという。
[注釈]
・重衡朝臣:平清盛の子・平重衡。蔵人頭。
・宇治道:一説に六波羅から大和大路で宇治方面へ出ていく経路とされている。
メモ
巨星堕つ。その病状は二月末から公家日記に記されていた(『玉葉』二月二十七日条など)。臨終の際に高熱に苦しんだ様子は『平家物語』などにも「アツチ死」などと描写されている。
清盛の遺言により東国追討に赴いた重衡は、その武勇を買われての出発だった。清盛は自身の追善供養以上に反平氏の動きを止めることを最優先にするよう遺言した(『吾妻鏡』閏二月四日条)。子孫一人になっても頼朝と交戦すべきと喝破する勢いだったという。
清盛臨終と同時に重篤を知らされている藤原邦綱は、重衡を娘婿とし子息・清邦を清盛の猶子としている。その病状もまた二月末より公家日記に記されていて、この月二十三日に薨じた。
姉の死
(閏二月)六日、天晴、京極殿昨日出家〔戒師阿証房〕《以下略》、
[訓読]
六日、天晴。京極殿、昨日出家す〔戒師阿証房〕。《以下略》
[意訳]
六日、晴。昨日、京極殿が出家した。戒師は阿証房である。《以下略》
[注釈]
・京極殿:定家の異母姉・後白河院京極局。
(閏二月)十二日、天晴、亭主自去月所労、灸治盛爛合、更不愈之上、其身腫、逐日有増、今日又移坐北小路、
[訓読]
十二日、天晴。亭主去る月より所労。灸治、盛爛合す。更に愈えざるの上、その身の腫れ、日を逐って増あり。今日又北小路に移り坐す。
[意訳]
十二日、晴。亭主は先月から病気である。灸治で皮膚がかなり爛れてしまっている。一向に治癒しないうえ、身体も腫れ、日増しに悪化している。今日父はまた北小路に移り住まわれた。
[注釈]
・亭主:後白河院京極局をさす。
・盛爛:灸治に伴う皮膚のびらん。
・北小路:俊成の家司・源成実邸。
メモ
灸は針や蛭食などと並んで当時メジャーな医療行為だった。現代でもそうだが灸は皮膚の上に艾(もぐさ)を置いて燃焼させるため、火傷をしてしまうことがある。その事は当時の諸記録にも多く記されているが、特にひどい場合は歩けなくなったり出仕困難になったりもしたようだ(『玉葉』建久元年十月一日条、『花園天皇宸記』元亨三年五月十五日条など)。もちろん『明月記』でもその記録は散見され、病弱な定家卿は咳病はじめ歯痛に瘧とたびたび病に伏しているおり、灸治もまたしょっちゅう行っている。ちなみに咳病(喘息)に関しては、日本最古の記録といわれている(田中明彦・足立満「治療の変遷」『日本内科学会雑誌』第102巻・第6号)。
さて、前年二月の火事以来、あちらこちらを転々としている俊成・定家親子。この後白河院京極局の住む高辻邸には前年十月三日以来同宿していた。その家主が病気となって日増しに悪化の一途をたどっているため、俊成は病を避けて再び成実邸に移ったのだろう。前年七月以来、通算三度目の成実邸である(笑)。
(閏二月)廿四日、雨降、高辻亭主遂以逝亡、龍寿御前又被迎寄、自去年春有猶子儀、同宿彼家、
[訓読]
二十四日、雨降る。高辻亭主遂に以て逝亡す。龍寿御前又迎へ寄せらる。去年春より猶子の儀あり、かの家に同宿す。
[意訳]
二十四日、雨が降った。高辻の亭主がついに亡くなった。父は龍寿御前をまた迎え寄せられた。昨年春より姉は猶子になっており、一緒に住んでいた。
[注釈]
・高辻亭主:後白河院京極局をさす。
・龍寿御前:定家の同母姉。
(三月)九日、除服〔高辻事〕、
[訓読]
九日、除服す〔高辻の事〕。
[意訳]
九日、高辻の服喪を終える。
メモ
閏二月二十四日、定家の異母姉・後白河院京極局が亡くなった。生年・実名ともに不詳で、母は丹後守藤原為忠の娘である。後白河院近習の藤原成親に嫁すがのちに離縁している。後白河院が治承三年の政変で幽閉された際、丹後局とともに後白河院に近侍したことが知られている(『山槐記』治承四年三月十七日条)。
また『たまきはる』では健御前が建春門院に初参した際、京極局が連れ立ったことが記されており、しかも目にかけてもらえるよう他の女御へ直々に挨拶をしている。また前年治承四年に健御前が実家に戻ってきた折も、それ以前に京極局のもとに身を寄せている。健御前自身「養ひ立てし姉」「母と頼む人」と慕っていたことがわかる。
定家は後年、安嘉門院に出仕していた娘の因子(後堀河院民部卿典侍)が禁色を許されたこと喜び、「予の姉妹十一人、面々の官仕悉くこの恩有り。これ祖父を優せらるるか」と誇らしげに姉妹の名前と実績を書き連ねている。その最初が京極局で「仁安より治承に至り唯一人祇侯し、御車の後に乗る。近習奏者、余人なし。暇を申して出家するの後、三条局〔通親卿の姉〕を以て替りとなす」と記している(『明月記』嘉禄二年十二月十八日条)。また『新勅撰和歌集』にも一首加えている。
なお服喪に関し、『令義解』などでは親族のうち父母の喪は「重服」、それ以外は「軽服」と区別され、服喪期間も親兄弟の場合三か月と定められていた。京極局が亡くなってから三月九日で十五日目であるからなんだか早い気もするが、そこまで厳密なものではなかったのかもしれない。後年、異母姉の二条院兵衛督(源隆保妻)が亡くなったときなど、九条良経に催促されたこともあって五日で除服している。もっともこの異母姉弟は生前ほぼ接点がなかったようで、「(源隆保の)妻同じくこれに在りと云々。予の姉なり。この次で、始めて詞を通ず」(建仁二年四月二十三日条)「年来聞くと雖も未だ対面せず」(元久元年九月七日条)という程度にしか『明月記』にも記されていない。
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