令和の時代に鎌倉幕府に思いを馳せてみた~後鳥羽院をめぐるフィールドワークその3~

 Field work on KAMAKURA Shogunate around the Jokyu war age.
 2019年末、例の後鳥羽院単推しの通称ママとの取材旅行の前に、ひとりブラっと古都・鎌倉に残る承久の乱関連の史蹟を巡ってきましたというレポ。

目次

     ・切通しのこと
     ・冬の由比ガ浜
     ・承久の乱を彩った人々の眠る場所と日蓮の消息
     ・鶴岡八幡宮と承久の乱
     参考文献
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図説 鎌倉府

新版改訂 鎌倉観光文化検定 公式テキストブック

切通しのこと

 平安時代末、栄華を極めた平家の衰退と前後し時代の寵児として台頭を果たした源氏。
 その棟梁たる源頼朝は鎌倉に政治の拠点を置いた。北面と東西を山に囲まれ、南側には海を配する「天然要塞」としての条件を兼ね備えていたというのがその理由らしい。
 海に関しては言わずもがなだが、三方を囲む山は、温暖とはいえ太平洋から永年吹き付けられた風によって急峻な山肌が形作られている。
 よってその険しい山を越えようにも馬はおろか徒歩でもなかなか大変なわけで、陸路として整備されたいわゆる「切通し」の狭いルートを通ることでしか鎌倉の都市部へ行くことができない。
 まさしく武家が拠点を置くべき要塞都市として十分だろう。
 
 まず、その陸路の拠点となった「切通し」のひとつ【名越切通】を見に行こう。

  
 場所は鎌倉市と逗子市のちょうど境にある逗子市名越。
 鎌倉から逗子市に抜けるトンネル地帯の真上にある。

 
 正式な入り口は名越の住宅街からあるが、個人的にこの名越7丁目交差点からのルートが好きなのでこちらを紹介しよう。
 交差点から住宅街方面にちょっと行ってふりかえるとこんなコンクリートの階段がある。
 ここを登ると突然緑の広場に出る。
 
 この奥にある階段を登っていくのだが、一応整備されているとはいえなかなかの急こう配w
 
 

 で、ここを登り切って右手側すぐにあるのが

 
 「名越切通」です。

 
 正規の入り口の方からくるとこんな岩場をみることもできます。
 こんな岩場そして狭さなら、やれ「戦じゃ~!!」といって攻め込もうにも駆け抜けることもできず意気も落ちそうだというのが頷ける。

 
 ちなみにこの切通しは通称「第一切通し」といわれ、これから先の道にはちょっとわかりづらいが第二・第三とある。
 またこの地域一帯に残されている他の名所・史跡とともに国史跡「名越切通」として指定されている。

 ……とはいえこうした史跡や文化財にはどきどき良からぬことをする輩もいるわけで、2009年初夏にはこの切通し最狭部の岩場へのいたずら書きが発見された。
 
 (現場に赴いて撮影した事件当時の写真)
 一昨年夏に後鳥羽院を巡るフィールワークに出かけた際、京都大原の寂光院なんかにもプラっと立ち寄ったりしたけども、歴史的に重要な史跡や建造物へいたずら心で危害を加えるものには天罰が下ってもらいたいと常々思っている。

 さて、少し話しがそれたので切通しの方に話しを戻そう。

 この名越の切通しが初めて文献に記されたのは
 『吾妻鏡』天福元年(1233年)8月18日の条に「名越坂」とあるのが最初。

早旦、武州(北条泰時)江嶋明神に奉幣の爲出給ふの處、前濱に死人有り、是殺害せられし者なり、仍つて神拜を遂げ給はず、直に御所参り給ひて、即ち評定衆を召し、沙汰を經らる、先づ御家人等をして、武藏大路、西濱、名越坂、大倉、横大路已下、方々の途路を固め、犯科者有るか否か、其内の家を捜し求む可きの由、仰下さるるの間、諸人奔走す、而かるに名越邊に、或男直垂の袖を洗ふ、其滴血なり、恠を爲して、岩手左衛門尉之を生虜り、相具して御所に参ず、推問の刻、所犯の條遁るる所無し、是博奕人なり、仍つて殊に其業を停止す可きの由、下知すと云々

 とあるとおり実に古くから整備されていた古道なのが分かるが、近年でもたびたび調査研究が進められており、それらによると、この古道ひとつとっても長い歴史の中でさまざまに変化を遂げてきたことが伺える。
 cf, 史跡『名越切通』〜地域に根ざした歴史遺産の整備と活用に向けて〜(逗子市教育委員会)

 では切通し本道を行ってみましょう。

 
 巌に苔生す感じに歴史の重さを感じるが、この道もまた歴史上何度も補修やかさ上げがなされて現在の姿となっているという。

 途中にあるのが史跡【まんだら堂やぐら群】
 
 鎌倉周辺に数多く残されている”やぐら”は岩壁などをくり抜いた横穴や洞穴に死者を埋葬した形態の墳墓で、この「まんだら堂やぐら群」はその中でも最大規模。現在も調査発掘が行われており、一年の間でも限られた期間にしか公開されていない。
 
 
 ちょっと柵の上から……
 なんとも不思議で幽玄な空間。

 ちなみに「まんだら堂」というのは江戸初期にすでに地名として知られていたものの、どのような建物であったかは今でも分かっていない。

 第二切通し付近。
 
 
 木々の根が岩場を突き抜けている姿に悠久の時間の流れを感じる。

 さて、この切通し本道を抜けると横須賀線の線路が正面に見える。
 
 ここも撮り鉄さんには有名なスポットだったりするが、なんせここから住宅街を抜ける道があまりにも急なのでちょっと一苦労する。

 
 でも少し歩けば富士山なんかも見えるなかなかの散歩スポットでもある。

 最後に切通しに関して、この名越以外にも朝比奈切通や十二所切通など、現在でも鎌倉周辺には多くの切通し跡が残っているが、その中でも私が一番お気に入りなのが

 【釈迦堂切通し】
 
 現在は柵なども設けられ完全に通行禁止の状態。

 
 まだ通行出来たころはこんな感じ。
 崩落の危険があるということで通行禁止とされたようだが、鎌倉の大町と浄明寺をつなぐ道なので生活道としても重宝されていたようだし、なにより修理保存も進められずこのまま荒れさせては風化が進む一方なのではと思えてならない。

冬の由比ガ浜

 夏場に多くの観光客で賑わう由比ガ浜海水浴場。日本屈指の人気海岸も、冬場となれば意外と閑散としている。
 

 この日は天候もよく穏やかで暖かい日であったため、遠く伊豆大島の島端部分でかすかに蜃気楼も見れた(ちょっと写真ではわかりづらいか?)。
 
 
 で、この由比ガ浜へなぜ今回の取材で来たかというと、鎌倉三代将軍・源実朝にまつわるとあるエピソードに思いを馳せてみたかったからだ。

 鎌倉幕府全般の様子についてはどうしても『吾妻鏡』によらなければならないのだが、これ自体は北条氏の側に立って書かれたもの(今流行りでいう「忖度」して書かれたもの)なので、そのあたり留意しなければならない。正直『吾妻鏡』は詳細にして一番信じ難いという二律背反の性格が強い。しかも北条氏側の作為というのも実に巧妙に仕込まれており、一見不利に見える記載でも単純な理由から伏せているわけではなかったりするから実に厄介。
 しかし、そうした点に注意しながら読んでみると、特に実朝に関してはなんとも心理的謀略、「伝説」化を狙っているように読める節があるのだ。

 実朝の兄・頼家は『吾妻鏡』『北条九代記』『愚管抄』などの文献を読むにつけ、実に膂力に優れた人物なのが分かる。
 遊興にふけり北条執政には反発を繰り返し、政治的な施策などにはほとんど関わらなかった。
 それに比し、兄とは正反対の温厚で学識豊かな実朝が三代将軍に迎えられた際、どれほどの好感が持たれたのかは想像に難くないところだ。

 そんな実朝だが、生前、母・政子の実家にして執権役であった北条一族、その執政に対し全面的にぶつかり我意を押し通したことが3回だけあったと伝えられている。
 ひとつ目は自身の結婚に際し、ふたつ目が晩年に官位昇進をしきりに求めたこと、そして3つ目がこの由比ガ浜も関わる「渡宋計画事件」だ。
 
 
 
 その事件の一部始終を文献から抜粋してくるのはあまりに煩雑になってしまうので、ことの概略を記すにとどめよう。

陳和卿という仏師大工(これがかなりの眉ツバ者)が実朝に謁見した際、「君はかつて、宋・医王山の長老の後身であった」と涙を流しまた「自身はその徒弟の後身だった」と伝えた。
 すると実朝自身も、以前みた夢の中で高僧が告げたことと一致すると、その話しを丸呑みに信じてしまう。更に後日夢告があったとして、入宋すべく大船建造を指示した。

 というもの。
 幽玄奥ゆかしい鎌倉時代とはいえ、それでも異様極まりない逸話である。

 当時の宋国の隆盛栄華に関して、鎌倉寿福寺の住職だった日本臨済宗の祖・栄西が二日酔いの実朝に茶を薦めたなどの逸話がある通り、実朝自身も以前よりさまざまな形で情報を得ていたであろうことは予想できるので、そうしたことも相まって実朝自身の中で渡宋の思いが一気に膨らんだことだろう。

 とはいえ大船建造など、北条氏を筆頭に周囲がおいそれと承知するはずがない。それでもすったもんだの末に実朝は建造を強行してしまったのだ。

 ……しかし鎌倉の海岸沿いは現在でも大きな船が接岸できるような地形ではない。
 また建造された大船というのもいわゆるドックのような場所が用意されているならまだしも、完全に陸の上で建造されたため、数百人の人夫を召出させて由比ガ浜まで引っ張っていこうとしたものの、結局浮かべ出すこともできずいたずらに砂浜へ打ち捨てられてしまった。
 この失策の元凶である件の陳和卿についての動向は、これ以降いかなる文献からもぷっつりと消え、その消息は杳として分からなくなった。

 仮にこの大船を無事進水できたとして、果たして実朝は実際にはどうするつもりであったのだろうか?
 第一、ときの覇者たる上皇・後鳥羽院にどう名目をたてるつもりだったのだろうか?

 大正時代、坪内逍遥はこのエピソードを基に『名残の星月夜』という戯曲を書いている。
 その中で、実朝は渡宋と見せかけ、実際には畿内付近に寄港・上洛し、後鳥羽院ら律令王権勢力と合流の上で北条一族の討滅を謀ろうとしたが、北条勢力の討滅はそのまま頼朝以降の武門勢力の崩壊を意味するという母・政子の諫言をもって、自ら計画を座礁させたという筋をとっている。
 正直これは戯曲なので、逍遥の空想よろしくなんら典拠のある話しではない。
 しかし、実朝が「太上天皇御書下預時歌」を詠んでいることなど、そうした解釈をゆるす傾向が実朝自身の生涯のなかにあったことも確かだ。
 

 私自身、つねづね実朝には「公家になろうとした武家」「宮廷文化に憧れ続けた野人」といったイメージを持っている。
 三島由紀夫や中原中也、そうした人物を評するうえで頻出させる言葉だが「大真面目にグレている」人、その印象を実朝にも抱いている。
 武家の棟梁、幕府の中枢として政治的にもさまざまな施策を行う一方、幕府歌会なるものを月に一度という頻度で行うなどしている。またあまりにも有名だが自身の家集『金槐和歌集』では、多く古今・新古今調の本歌取りの歌を所収している。

 例の後鳥羽単推し、下町生まれ山手育ちの江戸っ子であるママなんかは実直に、実朝を「昭和40年代、新宿三丁目の由緒正しきオカマ」などと評している。
 筋骨隆々の身体にキレイな衣装をまとい、ストッキングをはいた脚からはすね毛が飛び出ている。長い髪のかつらをかぶって、エラの張った顔には青ぞりの髭の剃りあと……と、今のご時世ならすぐさま炎上してしまいそうな案件だが、ここではあくまでそういうイメージということで容赦してもらいたい。

 ま、私とママとで表現は違えども大体同じイメージを抱いているワケだ。
 
 自身の置かれている状況と憧れる対象とのギャップ。
 それは実朝自身の力でもどうしようもならない現実に他ならない。
 政治の中枢としての自身の存在は、その内実においては現実を失い浮世立っている。渡宋計画事件はその象徴的な出来事だといえるだろう。

 そんな儚い思いも無残に打ち破られた実朝に残っていたものはなんだったのだろうか?
 先にもあげたが、この一件以降、実朝は狂ったように官位昇進を望むようになる。
 側近の北条義時、大江広元はじめさまざまに諫言を受けるも「子孫のため」と実朝は頑なだったという。
 しかし実朝には後嗣がない。ましてや義時・広元などとの間にはすでに京より皇子を迎える密議があったとされている。

 この期に及んで実朝の存在意義とは?
 ……あくまで憶測だが、実朝自身の中にすでに鎌倉において自分は「無用の者」という認識があったのではないだろうか?
 鎌倉側はその成立前夜から「無用の者」にいかなる処遇を与えてきたか、義経以降、その例に事欠かない。
 「無用のものは葬り去る」
 それが鎌倉の流儀だ。
 いまその段に自分が及び、少なくとも高い官位に登り詰め、あるいは天皇の側近者としての地位を築けば最悪殺害は免れるかもしれない、そんな思いが実朝のなかにあったのかもしれない。
 
 いずれにしてもその真意は実朝の死とともに永遠の謎となってしまった。
 あとに残ったのは暗澹たる時代の幕開けを想起させるような絶望感だけだ。

 

 私は冬の由比ガ浜が好きだ。
 ひとのまばらな海岸沿いは、穏やかな日差しと冷気を宿す海風が相俟って、この時代の雰囲気を味わえるような気がしてならないからだ。
 そうしてぼんやり海を眺めながら、実朝が何を見、何を感じていたかに思いを馳せる、その時間が好きだ。
 だがその陰にあった真意や背景を考えるにつけ、あまりにも深くあまりにも絶望的な思いが交差してくる。

 青い空に鈍色の冬の海。
 それと実朝の歌を対比させたとき、彼の抱いていた理想と現実のギャップが垣間見れる気がするのだ。

うばたまや 闇のくらきに 天雲の
   八重雲がくれ 雁ぞ鳴くなる
      『金槐和歌集』巻之下『雑部』

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源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍

金槐和歌集

承久の乱を彩った人々の眠る場所と日蓮の消息

 さて、鎌倉には大仏をはじめとした仏閣が今なお数多く残されているが、その中で承久の乱と関わりの深い場所として【妙本寺】を挙げたい。
 

 ここはもともと「比企谷(ひきがやつ)」と呼ばれ、鎌倉時代、源頼朝に仕えた御家人・比企能員一族の屋敷があった場所だ。
 日本史の教科書などで目にした人も多いと思うが、比企一族は「比企能員の変(建仁三<1203>年)」の末この地で滅亡している。
 「比企能員の変」は頼家の次期将軍を誰にするかで千幡(のちの実朝)を推す北条側と、能員の娘で頼家の妻・若狭局が生んだ一幡を推す比企側との間で起こった争いで、結果北条側の軍勢に敗れた比企一族は屋敷に火を放ちつぎつぎ自害していったと伝わる。

 本堂にあたる「祖師堂」横には比企一族の墓が佇んでいる。
 
 写真にはないが、この墓の手前には「一幡之君袖塚」というものがある。
 
 『吾妻鏡』巻十七<建仁三年九月三日 条>には

……故一幡君の遺骨を拾い奉らんと欲するの處、焼くる所の死骸、若干相交りて、求むるに所無し、而るに御乳母云ふ、最後に染付の小袖を著せしめ給ふ、其文菊の枝なりと云々、或死骸の右の脇下の小袖、僅かに一寸餘焦げ残り、菊の文詳かなり、仍って之を以て之を知り、拾ひ奉り了って……

 とある。一幡が最後に着ていた小袖の焼け残りを供養するため建てられた塚だ。一幡はこの時わずか6歳だったという。

 
 「比企能員の変」で比企一族は滅亡となったが、能員の妻妾と当時2歳の末子・能本は助命され安房配流となった。
 この能本は出家後、京で順徳院に仕え佐渡配流にも同行した。彼の姪にあたる竹御所(頼家の娘)が4代将軍九条頼経の妻になったことから鎌倉に帰ることを許され、それと同時期に日蓮に帰依しはじめ、また竹御所没後はその弔いのため、かつての比企谷に堂を建立しこれが後に妙本寺となったと伝わっている。

 日蓮に関しては、鎌倉に草庵を結び数々の法難にあいながらも辻説法を行うなどして法華経の教えを説いていたといわれている。
 そのため日蓮に関する史跡も鎌倉には数多く残されている。

 
 ここ【安国論寺】は日蓮が草庵を結んだ場所のひとつとされている。ほか、妙本寺や長勝寺だったという説もある。

 
 先の名越切通の近くには【日蓮乞水】という井戸があり、ここは鎌倉へと向かう日蓮が急なのどの渇きを覚え、地面に杖を突き刺すとそこから水が湧き出たという伝説が残る井戸で、鎌倉五名水の一つ。

 
 【辻説法跡地】は丁重に整備されている。

 日蓮は後、現在の藤沢市片瀬にあった「龍の口刑場」(現・寂光山 龍口寺)で処刑されることとなったが、その寸前にわかに雷鳴が轟き刑吏の刀を折ってしまったことから処刑を免れ佐渡へと流されることとなった。
 日蓮は承久四(1222)年に生まれているので若干年代の差はあるものの、承久の乱に関わる土地とまた縁の深い人物だ。
 

 さて、一路鶴岡八幡宮東側の住宅街へ。
 横国大付属鎌倉中学校すぐ裏手の小高い山にあるのが鎌倉幕府初代将軍【源頼朝の墓】

 
 この墓のある辺りはもともと頼朝の持仏堂があったとされ【(大倉)法華堂】と呼ばれていた。
 現在の墓の層塔は江戸中期に島津藩主・島津重豪が再建したもの(ただし、平成二十四<2012>年に酔っ払いによって破壊され修繕されている)。
 またこの墓所の土と石については、頼朝の父・義朝が平治の乱で平家に敗れた後、頼朝は伊豆国(蛭ヶ小島)に同母弟・希義は土佐国にそれぞれ流され、以降一度も再会を果たせなかった悲哀を想い、平成六(1994)年に互いの墓所の土と石を交換し再会させようという事業が行われ、希義の墓所のある高知県からもたらされた。

 この頼朝の墓の上には北条義時【法華堂(墓)跡】がある。現在の義時の墓所は静岡県伊豆の国市北條寺境内にある。これは後に泰時が建立したものと伝わっている。
 
 
 頼朝の墓のすぐ近くにある急階段を登った先の広場がそれにあたる。近年の調査では一辺約二八尺(八・四八メートル)の方三間堂だったことが分かっている。

 
 ここの更に上には3つのやぐらがあり、左二つと右一つにそれぞれ鳥居と階段がある。

 
 左側二つのやぐら。
 奥が【毛利季光の墓】で手前が【大江広元の墓】

 
 右側のやぐらは【島津忠久の墓】

 大江広元と毛利季光の墓は江戸後期に長州藩によって建立されたもの。大江広元の墓に関してはなんら根拠があるものではく、十二所の方にも広元の墓所と伝わる五輪塔があり伝承ではこちらが本来の墓とされている。

 
 北条義時法華堂跡の傍らには宝治合戦で敗れた【三浦泰村一族の墓】と伝わるやぐらもある。

 で、泰時法華堂跡の写真は……というと、これに関してはちょっと理由があるので記事の最後にまとめて書きます。

 

 で、ここで出てきたうち北条義時と大江広元の二人は初期鎌倉幕府における重鎮であることはもちろん、承久の乱においても最重要人物だ。
 北条義時は2022年の大河ドラマの主人公であることからにわかに注目を集めている。
 実質後鳥羽院と順徳院を流した張本人でもある。
 が、ママなんかは「キーパーソンはやっぱり大江広元よ」などとよく言っている。
 元は朝廷に仕える下級貴族(地下人)だった広元だが、鎌倉に下って頼朝の側近になると鎌倉幕府創建に貢献するなど表に裏にとさまざまな活躍あるいは暗躍をした人物。

 この二人の動きをどう読むかで、承久の乱の見え方もまた変わってくるのだろうな。
 
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鶴岡八幡宮と承久の乱

 鎌倉の観光名所のメッカといえば、やはりここ【鶴岡八幡宮】だろう。

 
 頼朝による鎌倉幕府開府後、頼家の勧請などを経て鎌倉源氏の氏社として武家の崇敬を集めた。

 この鶴岡八幡宮の境内でもっとも有名なスポットだったのが本宮(上宮)に続く大石段脇にあった【大銀杏】だが、平成二十二(2010)年春先の大風で根元から倒れてしまったことは記憶に新しいところだろう。
 
 この大銀杏は樹齢800年とも1000年以上ともいわれていて、その長い歴史の中でもっとも有名とされる逸話が実朝暗殺にまつわるものだろう。

 建保七(1219)年1月27日、実朝が雪のなか八幡宮拝賀を終えて退出していた折、「父の仇を討つ」と叫びながら公暁(頼家の子・八幡宮別当)に襲われた。その時、公暁が身を潜めていたというのがこの大銀杏の陰といわれているが、実際にここに隠れていたか否かは当時の史料には一切出てこないので後代の創作なのはほぼ自明だろう。
 とはいえ『吾妻鏡』や『愚管抄』『承久記』などにも見えるこの実朝暗殺事件、当事者たちの思惑がさまざまにめぐった末の悲劇であったのだろう。そして公武逆転の歴史的一大転機のその幕開けであったことは確かだ。
 この事件の背景にあるもの、そしてその黒幕などについては近年でもその研究が進められているほど謎が謎を呼んでいる。その一つひとつを紹介しているとあまりに冗長になってしまうので割愛するが、義時黒幕説、義村黒幕説、御家人共謀説、後鳥羽上皇黒幕説など枚挙にいとまがない。
 いずれにしても、わたし自身はここに倒れた悲劇の将軍の悲哀と無念に思いを馳せるだけで、いつも胸が締め付けられる。

 

 実朝暗殺後、公暁はその首を持ち去り食事の時も傍らに置いていたと伝えられる。
 後見人の宅より乳母夫にあたる三浦義村に将軍就任の準備をする旨の使いを出したが、これをきっかけに公暁追討の評議がなされ、結果義村宅に向かう途中で追手に討ち取られた。
 『吾妻鏡』によると実朝の首は所在不明となっているが、『愚管抄』では(岡山の)雪の中から実朝の首が発見されたとある。

 現在実朝の首は秦野市郊外で首塚として供養されている(『源実朝公御首塚<みしるしづか>』)。
 由来によれば、三浦義村の家臣・武常晴が縁のあった波多野氏を頼ってその領地に実朝の首を弔う墓所を建てたといわれている。この武常晴という人物は、首塚近くにある金剛寺という寺院も建立したと伝えられている。
 
 
 
 実朝の胴体については、『吾妻鏡』では鎌倉大御堂ヶ谷(現・鎌倉市雪ノ下)にあった【勝長寿院】に葬られたと伝えている。しかし勝長寿院は後に荒廃している。
 現在、実朝の墓とされているのは鎌倉・源氏山公園の麓にある【壽福寺(寿福寺)】だ。
 
 
 静謐な木々の杜に囲まれた境内には鹿威しの音が響き渡っていた。
 
 寿福寺の奥にある墓所の最奥にやぐらがある。
 
 ここに母・北条政子の墓とともに供養されている。

 【北条政子の墓】
 

 【源実朝の墓】
 

 本来ここへは寿福寺本堂の脇道から上がってこられるのだが、ここもまた崩落の危険があるため通行止めとなっている。
 
 
 
 
 さて、今回の承久の乱に関わる鎌倉の史跡巡りの最後に訪れたのが、先に訪れた鶴岡八幡宮のちょうど裏手に位置する【新宮(今宮)】だ。

 鶴岡八幡宮裏にある【鶴岡文庫】(八幡宮の史書図書館)前を横切り道なりに細い路地を行った先にあります……
 
 
 
 
 
 が、
 
 
 
 こちらが「新宮(今宮)」なのですが、なにやら様子がおかしい。白い布が……。
 

 まずなにはともあれ「新宮(今宮)」について。
 ここは何を隠そう承久の乱で配流となった三上皇を祀る神社。
 正確には後鳥羽院と順徳院、そして乱でともに戦った長賢を祀ったもので、土御門院は明治に入ってから合祀されたと言われている。

 境内にある碑には

四条天皇延應元年鎌倉中處々喧嘩闘争ノ事アリ特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フ玄日後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ寶治元年四月大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ其院ノ尊霊ヲ勧請シ奉リ順徳院及ビ護寺僧長賢ヲ合祀セラル長賢ハ承久ノ役官軍ニ属シテ奮戦後捕ハレテ陸奥謫セラレシ者トイフ今宮ハ又新宮ト書ス

 とある。

 また『新編鎌倉志』には

新宮イムミヤ 我覚院の門前より左へ折て行、山の麓にあり。三間に二間の社地。當社の縁起、浄國院にあり。【東鑑】に寛治元年四月廿五日、後鳥羽帝の御霊を鶴が岡の乾の山の麓に勧請し奉らる。是彼の怨霊を宥め奉らんが為に、日来一宇の社壇を建立せらるとあり。社の後ろは深谷也。一根にして六本に分れたる大杉あり。魔境にて、天狗此に住と云ふ。普川國師の【新宮講式】に云、有霊託、構小社於神宮縁邊、有敬信、儼三所於靈岳甲勝、所謂左胸者、順德帝、右胸者、長嚴僧正、共為内秘外現云云。【神明鏡】に、後鳥羽帝崩御の後、鎌倉中喧嘩闘争しけり。就中五月廿二日、大騷動も有ければ、彼の御怨念にやとて、雪下に新宮と號し、法皇を祝し奉る。順徳帝と護持の僧長玄法印と御真體となり、上野の行山の庄を神領とすとあり。長嚴・長玄は、【東鑑】に所謂、東大寺造営の尊師重源上人なり。三書異なりと云ども、實は一人なり。社僧の云傳るも如此。俗に右は土御門帝と云は未考。

 とある。
 
 後鳥羽院崩御直前の延応元(1239)年、それまで京ではたびたびささやかれていた後鳥羽院の怨霊が鎌倉中に騒動を起こしたとして、それを鎮めるために建てられた神社だ。
 実は現在の社殿はコンクリート製でなんとも味気ない感じのものではあるけれど(かつての社殿は近くにある小さな神社に移築されているらしい)、建物の如何によらず、怨霊畏怖がまことしやかに信じられていた時代に鎌倉にこうしたものが建てられたということは、承久の乱とその結末がいかに驚天動地の出来事であったかを今に伝えるには十分なものだろう。
 
 
 
 ……にしてもこれはどうしたものか?

 帰り道、鶴岡文庫前の駐車場の警備員の方に話しを聞くと曰く
 「9月の台風で大木が倒れたらしく、社殿はその下敷きに……」

 !!!

 ……これはママに報告せねば!

 想像力逞しい(?)わたしとママにこういう情報を与えていいものか?
 後日、ママにこの件を報告したところ、「そうえいばテレビでそんなこと言ってたの聞いたような見たような」という前置きのもと、
 「それにしてもまあ院のことだからね、喜び勇んじゃって台風来たのをこれ幸いにひと思いやっちゃったんでしょうねw」
 と大変ご満悦のようだったw

 不謹慎かもしれないが、ママは平成以降日本を襲った天変地異の数々を、2021年の承久の乱800年に向けた後鳥羽院の仕業だと読んでいる。
 日本三大怨霊といえば菅原道真・平将門・崇徳院だが、それを超える最恐の怨霊こそ後鳥羽院であると。

 最近、なんとなくだが私もその説を信じられなくもないという気になってきている。
 
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 怨霊とは何か – 菅原道真・平将門・崇徳院

 
 先に断っておくが、わたし自身スピリチュアル的なあるいは心霊的なものをあまり信じていない。もちろん否定もしないが。
 しかし、先の北条義時法華堂跡でも触れたこととここでリンクするのだが、今回の鎌倉巡りの中では実に不思議なことがいくつかあった。
 一昨年より後鳥羽院に関わる史跡や史料などに触れる中で、特に今回は強烈にそのこと感じた。

 というのは、その第一に北条義時法華堂跡の写真がないのだ
 いや、撮ったのは確かだ。その場で確認もしている。法華堂跡だけではない、北条氏邸宅跡の写真、頼朝の墓の周辺の写真などなど、北条義時に強く関係のある史跡の写真がことごとく消えていた。
 再度書くが、撮影した直後その場で確認をしている。そしてこの取材後、実はすぐ羽田に戻って今度は土御門院の史跡巡りをするため飛行機で四国に飛んだのだが、搭乗前にバックアップかたがたパソコンに写真データをコピーした際にもちゃんと確認した。常の心がけながら、念を押してUSBにもバックアップを取っていた。
 しかし、気付いた時にはパソコンからもカメラからもUSBからも、北条義時に関係する史跡の写真データが消えていた。保存データの通し番号も、ものの見事にそこだけ飛んでいる。

 
 半ば茫然としながらどうしたものかと思っていたら
 「チッ、義時んところの写真なんか撮りやがって……(・д・)」
 という後鳥羽院の舌打ちが聞こえた気がして苦笑せざるを得なかったw

 もう一点、今回の鎌倉巡りを含めた一連の予定をこなし北海道の山の中にある自宅に帰ってきた日の晩の話しなのだが、荷物を解いて片付けていた際、書斎で買った本や史料を片付けていてふと気づいたのだが、私の蔵する吉川弘文館刊『人物叢書 北条義時』のカバー背表紙が義時の名前を真っ二つにする形でものの見事に破れていたのだ!

 
 もちろんこの本自体も大分前に古書店で買った古い版のものなので、こうした劣化はやむを得ないにせよ、こう見事に真っ二つになっているとは……。
 なんとも不思議な出来事だった。

 書いていてなんだかまとめらしいまとめをする気も失せてしまったので、今回はこの辺で。
 

参考文献

・『大日本史料』第4篇<東京大学出版会,昭和56年>
・『吾妻鏡』岩波文庫 黄118-1~5<岩波書店、2008年>
・『愚管抄』日本古典文学大系<岩波書店、昭和42年>
・『新編鎌倉志』大日本地誌大系 第19巻<雄山閣、昭和4年>
・『金槐和歌集』新潮日本古典集成<新潮社、昭和56年>
・吉本隆明『源実朝』<筑摩書房、昭和46年>
・山本幸司『頼朝の天下草創』<講談社学術文庫、2009年>
・河内祥輔・新田一郎『天皇と中世の武家』天皇の歴史4<講談社、2018年>

                                など……

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