蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか
紀田順一郎
出版社;松籟社
発売日:2017/07/01
蔵書とは、散逸するものである……
以前にもチラッと書いたことだが、愛書家にとっての蔵書とは散逸することが前提にある。
本書は長年さまざまな媒体で著述をしてきた著者が、その人生の終末期において現実的な理由から図らずも膨大な蔵書を処分した顛末記である。「愛書家」「蔵書家」といった言葉は昨今死語になりつつあるが。その直前の回想記といっても過言ではない。
生活の改善を求めて地方へ移住するも、現実的な問題から再び都会暮らしへと戻る著者家族。その際、3万冊に及ぶ蔵書を手元における600冊にまで減らした。50分の1である。冒頭、業者に引き渡された蔵書を積むトラックの後ろ姿を眺めながら、「足元が何か柔らかな、マシュマロのような頼りないものに変貌」し「アスファルトの路上に俯せに倒れ込んでしまった」という描写があるが、なんとも痛々しい。蔵書家にとって、これは血反吐を吐くほどの切なさと無力感を感じざるを得ない。
前半ではそうした生前"蔵書"整理にまつわるエピソード、後半では「蔵書する」ことへの考察が論じられている。しかし、そのほとんどが著者による恨み節とも読めなくもない。致し方のないことだが。。。
都内在住のころ、私が収蔵していた書籍は2万冊強に及んだ。トランクルームを借りて詰め込んだりしていたが、北海道へ戻る際にその9割を処分した。しかしここ数年、例の後鳥羽院がらみのこともあって、当時手放した史料などを再び集めているうちに、書斎の本棚はたちまちに埋め尽くされた。北海道の山の中、近場の大都市・旭川に出れば大型書店や図書館もあるが、それでも限界はある。だからといって、たった一冊のためにわざわざ国会図書館まで赴くのもバカバカしくなる。結果、手元に置いておかざるを得なくなる。蔵書は増える一方だ。
書籍以外はミニマリスト的生活を送ってはいるが、果たしてどうしたものか? ……
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