今回は前回に引き続き、治承四五年記のうち治承四年六月~十二月を読んでいこうと思います。
目次
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【凡例】
治承四年(一一八〇)<定家十九歳・従五位上侍従>
・遷都、決定!!(六月一日条)
・藤原定家という人(七月十五日、九月十五日、十月二十二日条)
・俊成一家でパンデミック(七月十七日~二十五日条)
・平清盛、激怒!(十一月七日条)
・姉、健御前のこと(十一月八日条)
・帝、福原より還る(十一月二十五・二十六日条)
・定家卿、叱られる(十二月二十四日条)
参考文献
【凡例】
・本文、訓読、意訳、注釈とコメントの順で記した。
・底本には冷泉家時雨亭文庫叢書『翻刻 明月記』(全三巻)を用い、適宜、国書刊行会『明月記』(全三巻)を参照した。また訓読については今川文雄『訓読明月記』河出新社書房(全七巻)を参照している。
・本文の字体は底本に準拠するが、環境依存文字など一部は通用の字体に直した。また割書は〔 〕、欠損文字については○で示し、頭書・上欄補書は基本的に省略したが適宜注釈を付した。また中略部分については、本文などでは《中略》、注釈などでは"……"と示す。
・人物の官位は記事当時のものとする。
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藤原定家 『明月記』の世界 (岩波新書)
遷都、決定!!
(六月)一日、天晴、遷都一定之由云々、伝聞、遷幸必然、或人云、右中将隆房朝臣一人、着褐、顕文紗狩袴、市比脛巾、帯狩胡簶云々、自余事不聞、
[訓読]
一日、天晴。遷都一定の由と云々。伝へ聞く、遷幸必然と。或る人云ふ、右中将隆房朝臣一人、褐・顕文紗の狩袴、市比の脛巾を着し、狩胡簶を帯すと云々。自余の事は聞かず。
[意訳]
一日、晴。遷都が決定したという。伝え聞くところによれば、福原への遷幸も必然のようだ。ある人が言うには、遷幸に供奉した人の中で右中将隆房朝臣一人、褐衣と顕文紗の狩袴、市比の脛巾を着て、狩胡簶を背負っていたという。それ以外のことは特に聞いていない。
[注釈]
・右中将隆房:藤原隆季の子。正四位下。妻は平清盛女。
・褐:褐衣のことで、召具装束の上着。
・顕文紗狩袴:薄物の狩袴。
・市比脛巾:葈(からむし)を束ねた脛巾。
・狩胡簶:箙に狩猟用の矢を差してもの。
メモ
前日までは噂話として広まっていた福原遷都が、この日には決定事項として広まったようだ。『玉葉』などをみると、三十日に六月三日行幸と決まったものがその日のうちに六月一日に変更となり、最終的にこの日明日二日の行幸と確定したようだ。当時のバタバタとした宮中の雰囲気が伝わってくる。この事態に対し兼実は「言語のおよぶところにあらず」「天狗の所為、実にただごとにあらず」と嘆息している。
後半部の装束について、中将である隆房が着用することはとても奇異なことなので特筆されたのだろう。『玉葉』でも「はなはだもって甘心せざる」と指摘されている。
藤原定家という人
(七月)十五日、天晴 《中略》 宿七条坊門、今夜月蝕云々、依暑気、上格子、只望明月、終夜無片雲〔触不見、如何〕、
[訓読]
十五日、天晴。《中略》七条坊門に宿す。今夜月蝕と云々。暑気により格子を上げ、ただ明月を望む。終夜片雲無し〔触見ず、如何〕。
[意訳]
十五日、晴。《中略》七条坊門に泊まった。今夜は月蝕だという。暑いので格子を上げて、じっと明月を眺めた。一晩中雲ひとつなかったが、月蝕も見えなかった。なんで?
[注釈]
・七条坊門:龍寿御前の邸。
メモ
知られる通り、『明月記』には多くの天文現象が書き残されているが、その天文記事の最初がこの日の記録だ(斉藤国治『定家「明月記」の天文記録』)。月食を見ようと一晩中眺めていたのに結局見えず「どーした?」と、呑気というかおマヌケな書き口だが、天文学の研究からこの日実際に部分月食があったことが指摘されている。ただし、京で月が昇りはじまる前に終わってしまったので、結局見ることができなかったというオチなのだ。いずれにしても、この当時、すでにさまざまな天体現象が研究・予測されていたことがわかる。
(九月)十五日、〔甲子〕、入夜、明月蒼然、故郷寂而不聞車馬之声、歩縦容而遊六条院辺、夜漸欲半、天中有光物、其勢鞠之程歟、其色如燃火、忽然如躍、以自坤赴艮、須臾破烈、如打破爐火、散空中了、若是大流星歟、驚奇、与大夫忠信、青侍等相共見之、
[訓読]
十五日、甲子。夜に入りて、明月蒼然たり。故郷寂として車馬の声を聞かず。歩み縦容として六条院の辺りに遊ぶ。夜漸く半ばならんと欲す。天中に光る物あり。その勢、鞠の程か。その色燃ゆる火のごとし。忽然として躍るがごとく、坤より艮に赴くに似たり。須臾にして破烈し、爐の火を打ち破るがごとく、空中に散じ了んぬ。もしは是れ大流星か。驚奇す。大夫忠信、青侍等と相共にこれを見る。
[意訳]
十五日、甲子。夜になって、月が青白く輝いていた。旧都は寂しく車馬の音も聞こえない。六条院の辺りをぶらぶら散策した。夜半になろうとするころ、空に光る物を見つける。鞠ぐらいの大きさで燃える火のような色をしていた。それが突然跳ねるように南西から東北の空へ動いた。しばらくすると、炉の火を打ち破るように散り散りになって爆発した。もしかしたら大きな流れ星だったのだろうか? 大夫忠信や青侍なども一緒にこれを見た。
[注釈]
・六条院:白河院の六条内裏。後に郁芳門院の御所となるが炎上と再建を繰り返し衰微し、治承の頃にはかなり荒廃していた。
・大夫忠信:俊成の家人か?
メモ
福原遷都以降、京中は人気も少なくすっかり物寂しくなってしまっていた。そして「光物」との遭遇だが、いうなれば流星のことだ。『明月記』には、たびたび「光物」を目撃した記録が残されている。・・・それにしてもこの観察力というか描写力、さすがは「歌聖」と称されるだけあって言葉巧みに流星の流れ行く様を活写しているように感じる。
(十月)廿七日、天晴、参閑院殿〔七瀬御祓〕、蔵人兼業〔通業弟〕奉行、下官兄弟、盛実〔兵衛佐〕等三人参勤、遷都之後不幾、蔓草満庭、立蔀多顚倒、古木黄葉、有蕭索之色、傷心、如箕子之過殷墟、昏黒向土御門末、法成寺辺、弥以冷然、秉燭之後、返上御撫物、退帰、
[訓読]
廿七日、天晴。閑院殿に参る〔七瀬御祓〕。蔵人兼業〔通業弟〕奉行す。下官兄弟・盛実〔兵衛佐〕等三人参勤す。遷都の後幾ばくもあらざるに、蔓草庭に満ち、立蔀多く顚倒し、古木黄葉し蕭索の色あり。傷心、箕子の殷墟を過ぐるがごとし。昏黒、土御門末に向かふ。法成寺の辺り、いよいよもって冷然たり。秉燭の後、御撫物を返上し退帰す。
[意訳]
二十七日、晴。七瀬大祓のため閑院殿に参った。通業の弟・蔵人兼業が奉行し、わたしたち兄弟と兵衛佐盛実など三人が参り勤めた。遷都後そんなに経っていないというのに、庭には蔓草が生い茂り立蔀も多く倒れていた。古木は紅葉し、物寂しい雰囲気だった。まるで箕子が殷王朝の廃墟を通りかかった折のように、わたしの心はひどく痛んだ。日暮れに土御門大路の先へ向かった。法成寺のあたりはますます人気もなく、寒々とした様子だった。暗くなってから御撫物を返上して退出・帰宅した。
[注釈]
・閑院殿:高倉院在位中の内裏で院御所。
・七瀬大祓:毎月、院や天皇が罪穢を移した撫物を「洛中七瀬」で水に流して穢れを祓う行事。洛中七瀬は賀茂川と高野川の合流地点・川合および、一条・土御門・近衛・中御門・大炊御門・二条の各大路が鴨川(賀茂川)の河原に面する場所をさす。
・蔵人兼業:藤原盛業の子。院蔵人。
・通業:藤原盛業の子。正六位上蔵人、文章得業生。
・下官兄弟:成家・定家兄弟をさす。
・盛実:藤原俊盛の子。定家の最初の妻の父・季能の弟。左兵衛権佐。
・箕子之過殷墟:『史記』宋微子世家にある記述から。箕子は殷朝の政治家。箕子朝鮮の祖。
・秉燭(へいしょく):燈火をとる頃。夕方。火ともしごろ。
・土御門末:土御門大路が賀茂川の河原に面した場所。
・法成寺:藤原道長建立の寺院。鴨川(賀茂川)の西、土御門大路の南に位置した。
・御撫物:息を吹きかけたり身体を撫でたりして、身の罪穢を移す呪具。
メモ
九月十五日条同様、遷都により寂莫とした京中の様子が描写されている。その光景を目の当たりにして「傷心、如箕子之過殷墟」と書ききるあたりがなんとも定家らしい。高い教養と繊細な神経の持ち主、歌人・定家のそんな人物像が垣間見える・・・けれど、陰口・ゴシップ大好きな裏の顔をみると、正直「どの口が言うてんねん(笑)」とツッコミたくなる。
さて、福原遷都以降の寂れた京中の様子がたびたび描写されているが、実際この遷都にともなって人々が移住したわけではない。むしろ延臣を受け入れようにも寄宿の準備などが整わず、清盛の方から留め置きの通達があったほどだ(『玉葉』六月一日条)。結果、公事などは基本的に京中で行われていたことが『玉葉』『吉記』などに記されている。もちろん新都でも形ばかりに体裁を整えて公事はおこなわれていたが、こうなってくると人々の間に混乱と負担が生じ、やがて不満へとつながるのは今も昔も変わらない。平安京還都への期待が次第に高まりを見せるのも至極当然のことだ。
俊成一家でパンデミック
(七月)十七日、天晴、亭主一昨夕聊所悩、今日重被発、凡日来家中上下、青侍、女房等、同時瘧病、並臥、病悩極以怖畏、
[訓読]
十七日、天晴。亭主、一昨夕いささか所悩。今日重ねて発らる。およそ日来、家中の上下、青侍、女房等同時に瘧病、並び臥す。病悩極めてもって怖畏す。
[意訳]
十七日、晴。亭主、一昨日夕方から少し苦しまれ、今日また発作を起こした。最近は家中の上下関わらず、青侍、女房なども瘧病を患いみな床に伏している。家中で広がる病というのはまことに怖ろしい。
[注釈]
・亭主:藤原親忠の妻、定家の外祖母。
・瘧病:現代でいうマラリア。「わらはやみ」とも。
(七月)十九日、天晴、亭主招仏厳房受戒、又一日不動尊造立供養〔同上人〕、遂被発、
[訓読]
十九日、天晴。亭主、仏厳房を招き受戒す。また一日不動尊を造立供養す〔同上人〕。遂に発らる。
[意訳]
十九日、晴。亭主が仏厳房を招いて受戒した。また仏厳房が一日不動尊の造立供養を行った。だが結局発作を起こされた。
[注釈]
・仏厳房:仏厳房聖心。密教小野流の僧。九条兼実の帰依僧。美福門院の御願寺・普成仏院を建立した。
・受戒:仏教における戒法を受けること。
・一日不動尊造立供養:病気治癒祈願に不動明王像を造り供養すること。
(七月)廿一日、天晴、請阿証房被受戒、大納言殿、右兵衛督、各被枉駕、猶被発云々、
[訓読]
廿一日、天晴。阿証房を請じて受戒せらる。大納言殿、右兵衛督、各々枉駕せらる。なほ発らると云々。
[意訳]
二十一日、晴。亭主が阿証房を招いて受戒された。大納言殿や右兵衛督などがそれぞれ見舞いにおいでになった。亭主はなおも発作をおこされたという。
[注釈]
・阿証房:印西。授戒を得意とし、法然と同道するなどした時宗の僧といわれている。建礼門院が落飾した際は戒師を務めている。
・大納言殿:藤原宗家。俊成女八条院按察の夫。定家は宗家の猶子。
・右兵衛督:藤原重通の子・藤原家通。実父は藤原忠基。正三位参議。俊成女祇王御前の夫。
・枉駕:乗り物の方向をわざわざ変えて訪ねて来る意から、相手の来訪を敬う言い方。
(七月)廿三日、天晴、今日、一日大般若〔卅人僧〕、又験者護身、猶被発、参鳥羽殿御月忌、帰来之間、入道殿又令悩給、仰云、急可去此家、不可同宿、頻被追、旁雖不審、随仰宿北小路、前羽林女房等、同集此所、
[訓読]
廿三日、天晴。今日、一日大般若〔卅人僧〕、又験者護身するもなほ発らる。鳥羽殿御月忌に参ず。帰り来たるの間、入道殿又悩ましめ給ふ。仰せて云ふ、急ぎ此の家を去るべし、同宿すべからずと。頻りに追はる。かたがた不審といへども、仰せに随ひ北小路に宿す。前羽林の女房等、同じくこの所に集ふ。
[意訳]
二十三日、晴。今日、三十人の僧によって一日大般若が行われた。また行者が護身を加えたが、亭主はなおも発作を起こされた。私は鳥羽殿の御月忌に参った。帰ってくると父も体調を崩しておられた。おっしゃるには「急いでこの家から立ち去りなさい。同宿もいけない」というのである。私は追い立てられるままに家を後にした。なんとも納得がいかなかったが、仰せに従って北小路に泊まった。前雨林の女房らも同じく集まり泊まった。
[注釈]
・一日大般若:一日のうちに大般若経を供養する法要。
・験者:悪霊退散・病気平癒などの加持祈祷をする行者のこと。
・護身:心身守護を目的に印を結び真言を誦す作法。
・御月忌:美福門院(鳥羽帝皇后。近衛帝や八条院の生母)の月忌。
・入道殿:藤原俊成。
・北小路:源成実の邸。
・前雨林女房:俊成女の八条院三条。定家の同母姉で藤原盛頼の妻、俊成卿女の母。
(七月)廿四日、天晴、尼御前又悩煩給、
[訓読]
廿四日、天晴。尼御前又悩み煩ひ給ふ。
[意訳]
二十四日、晴。母もまた体調を崩されている。
[注釈]
・尼御前:俊成の妻・美福門院加賀。定家の生母。
(七月)廿五日、天晴、今朝、共令渡七条坊門給、同時瘧病、又赤痢病、更以不足言、無減渉旬月、毎事不能右筆、
[訓読]
廿五日、天晴。今朝、共に七条坊門に渡らしめ給ふ。同時に瘧病、又赤痢の病。更にもって言ふに足らず。減なく旬月に渉る。毎事に右筆する能はず。
[意訳]
二十五日、晴。今朝、両親は共に七条坊門にお移りになった。そして同時に瘧病と赤痢を患い病んだ。まったくもって言葉にならない。両親はひと月近くも体調を崩したままだ。事起こるたびにここへ記すのもままならなかった。
[注釈]
・赤痢:現代の赤痢と同じ。
メモ
定家の外祖母・藤原親忠妻の発病にはじまり、同居人たちが次々と罹患。最終的には俊成夫婦までもが感染し、しかも赤痢も併発するという惨憺たる有様。「更以不足言……毎事不能右筆」とこぼしたくなるのも仕方がない。
定家自身も病弱だったことは知られているが、『明月記』にももちろん自身の闘病記が数多く記されている。服薬や灸治、瀉血などさまざまな治療法も同時に記されているが(服部敏良『平安時代医学史の研究』)、中でも興味深いのは祈祷による治病法だろう。今回の記事群では仏教的祈祷のみ行われたようだ。その中でも「受戒」によるものが多いが、注釈に書いた通り、本来は仏教における戒律の教えを受けることをさし、僧侶の入門儀礼のひとつだ。これが次第に功徳を高める意味合いをもつようになり、禁忌の力で邪気を追い払う性格のものへと発展していったと考えられている(石田瑞麿『日本仏教思想研究』)。つまり、当時の伝染病は邪気によるものと認識されていたのだろう。
俊成が発症した日、「急可去此家、不可同宿」と言って定家を追い出した背景がぼんやりと浮かび上がってくるようだ。ただ、当の定家本人はまったくもって解せないという風で、二月の火事の際には不満タラタラだった成実邸へと向かっている。同居する息子に感染させるわけにはいかないという親心で隔離させたのだろうが、「親の心子知らず」というのは今も昔も変わらない。後年、定家は若き為家に対して常々不平不満の漏らすようになるが、晩年になってやっとその「親心」の何たるかに行き当たる。人間って、ホント進歩しない生き物だなぁ。
平清盛、激怒!
(十一月)七日、天晴、去夜、維盛少将自坂東逃帰、入六波羅云々、客主之㒵、已不相若、況亦疲足之兵、難当新騎之馬云々、入道相国猶以逆鱗云々、
[訓読]
七日、天晴。去る夜、維盛少将坂東より逃げ帰り、六波羅に入ると云々。客主の㒵、已に相しかず。況んや亦疲足の兵、新騎の馬に当り難しと云々。入道相国、猶以って逆鱗と云々。
[意訳]
七日、晴。昨晩、維盛少将が坂東より逃げ帰ってきたという。敵味方双方の軍勢はまったく均衡を欠いた状態だという。まして疲労困憊の維盛軍勢は、新手の騎馬隊とは戦えなかったという。この失態に入道相国は激怒しているという。
[注釈]
・維盛少将:平維盛。
・六波羅:鴨川東岸、五条から七条付近の平氏の拠点。
・客主之㒵、已不相若:『文選』巻十四「答蘇武書」からの表現。
・入道相国:平清盛をさす。
メモ
平維盛は源頼朝の追討使として九月二十二日に福原を出発した。十月十九日には駿河国富士川にて源氏軍と対峙したものの、戦わずして敗走してきたことが『山槐記』にみえる。「疲足之兵、難当新騎之馬」、つまり疲弊した兵を鼓舞しつつ新手の騎馬隊と戦う、武士として理想的な姿ではあるけれどそうした戦いができなかったというのだ。この一件、『吾妻鏡』では二十日とされているがその条をみると、夕刻迫るころ、富士川近くの沼地に集まっていた水鳥が一斉に飛び立ったが、その音に驚いた平氏軍は騒然となり「鎌倉攻めの前に囲まれたら逃げられなくなる」と憂慮、早く京に戻り策を練り直そうと夜明けを待たず京へ向かったと記されている。さもあらん、『玉葉』十一月五日条では「不覚之恥貽家」「尾籠」さらには「不可入京」といった清盛の憤りが記されているが、まあここまでボロクソに言われても致し方ないような気もしてならない。
姉、健御前のこと
(十一月)八日、前斎宮、今暁、下向摂津国貴志庄給云々、姫宮同被奉具、法眼栄全行事、去夜、遣迎車、健御前被渡此亭、此両人共不快、不従漁夫之誨之所致也、
[訓読]
八日、前斎宮、今暁、摂津国貴志の庄に下向し給ふと云々。姫宮同じく具し奉らる。法眼栄全行事す。去る夜、迎への車を遣す。健御前、この亭に渡らる。この両人共に不快。漁夫の誨に従はざるの致す所なり。
[意訳]
八日。前斎宮が今朝早く、姫宮もお連れになって摂津国の貴志荘へと下向なされたという。これを法眼栄全が取り仕切った。昨夜迎えの車を遣わして、姉はこの邸に移られた。二人は仲が悪い。漁夫の教えに従わなかったからだ。
[注釈]
・前斎宮:亮子内親王。後白河院皇女、母は高倉三位成子。
・摂津国貴志庄:現在の兵庫県三田市にあった荘園。
・姫宮:通説では以仁王の娘とされるが、潔子内親王(高倉院皇女)とする説もある。
・法眼栄全:藤原顕良の子で延暦寺僧。好子を養育した六条院宣旨の甥。
・健御前:定家の同母姉。異母姉であり継母の八条院坊門局と共に好子内親王へ出仕。八条院坊門局の母は六条院宣旨。
・此亭:定家の異母姉・後白河院京極の高辻京極邸をさす。当時、俊成・定家一家はこの邸の東方に居住していた。後白河院京極の母は藤原為忠女であり、娘婿は平維盛。
・漁夫之誨:『楚辞』屈原「漁夫一首」からの表現。「何事にも状況にあわせて行動すべき」という意で、『明月記』では数多く用いられている。
メモ
前回、龍寿御前の話題のときにも出てきた健御前だが、兄弟姉妹中でも定家と極めて仲の良い。だが、どこか定家と似通った性格の人のようで、良く言えば胆力がある、悪く言えば強情だったようだ。実際この日の記事以外にも、『明月記』には健御前が出仕先で諍いや揉め事を起こしてはそのとりなしに定家が奔走した記録が数多く残されている。
健御前と定家の関係については、単純な仲の良さ以上に継母・猶子関係であったことが指摘されている(稲村榮一「健御前と定家夫妻」『明月記研究 8号』)。実際揉め事の仲裁のほか、定家は大病を患った姉の看病に足繁く通った記録も多い。一方健御前は卿二品兼子と懇意だったこともあり、弟の官位昇進に多大な尽力をしている。後年の御子左家大躍進を支えた縁の下の力持ち、そんな存在だといえるだろう。
帝、福原より還る
(十一月)廿五日、〔癸酉〕、天晴、還都事、日来云々説、已及出車、引替之催、歓喜之涙難禁、
[訓読]
廿五日、癸酉、天晴。還都の事、日来云々の説、すでに出車引き替への催しに及ぶと。歓喜の涙禁じ難し。
[意訳]
二十五日、癸酉、晴。福原からの還都は近頃しきりに噂されていたが、すでに還都のための車や替えの牛の催促がされるまでになったという。歓喜の涙を禁じ得ない。
[注釈]
・出車(いだしぐるま):車の下簾から女房装束の袖口や裾などの端を出して装飾した女車。
・引替:途中で牽引交代させるための牛。
(十一月)廿六日、天晴、天子、両院已以還御、未刻、本院六波羅泉殿、新院同池殿、天皇五条東洞院、各入御云々、後聞、新院自御車下御、猶不輙、召寄近習女房、令懸肩御、入御之後、偏御寝云々、
[訓読]
廿六日、天晴。天子両院、已に以って還御す。未の刻、本院は六波羅泉殿、新院は同池殿、天皇は五条東洞院に、各々入御と云々。後に聞く、新院御車より下りおはしますも、なほたやすからず。近習の女房を召し寄せ、肩に懸らしめおはします。入御の後、偏へに御寝と云々。
[意訳]
二十六日、晴。今日、天皇と両院が京へとお戻りになった。未の刻に本院は六波羅の泉殿へ、新院は同じく池殿へ、天皇は五条東洞院邸へそれぞれお入りになったという。あとで聞くところによると、新院は御車よりお降りになるのもままならず、近習の女房を呼びその肩によりかかってお降りになったという。邸へお入りになってからもずっと寝ておられるという。
[注釈]
・天子:安徳帝。
・両院:後白河院(本院)と高倉院(新院)。
・未刻:午後二時頃。あるいは午後一時から三時にかけて。
・六波羅泉殿:平清盛の邸。
・池殿:六波羅の平頼盛の邸。
・五条東洞院:藤原邦綱の邸。
メモ
『玉葉』によれば、十月末、延暦寺衆徒から強い要求があったことを皮切りに、還都に向けた動きが本格化したようである。それ以外にも、日照りや地震などの天変地異も続き、また各地での諸源氏蜂起も相俟って、世上は大きく動揺していたことだろう。流星ももちろん、群盗が京中の公家旧宅をしらみつぶしに襲撃した記録もある。
そうした重苦しい雰囲気の中で実現した還都。『百錬抄』には「万民に悦色あり」と記されていることからも、どれほど熱望されていたかがわかる。定家でさえ「歓喜之涙難禁」という状態なのだから、余程だったのだろう。ちなみに件の二十六日、『山槐記』によれば聖地・熊野那智にて大地震があったことが記録されている。
さてひとつ気になるのが高倉院のことだ。『玉葉』『吉記』などによれば、七月半ばから持病が悪化し体調不良が続いていたらしく、「新院不豫」「御惱」といった言葉が年末にかけて頻出する。治承四年の七月といえば、十四日には我らが尊成親王のちの後鳥羽院が誕生している。
定家卿、叱られる
(十二月)廿四日、天晴、今夜新院御仏名、欲参之間、庭訓制止、及勘当、仍不参、不知其故、
[訓読]
廿四日、天晴。今夜新院御仏名。参ぜんと欲するの間、庭訓制止、勘当に及ぶ。仍て参ぜず。その故を知らず。
[意訳]
二十四日、晴。今夜、新院の仏名会があった。参上しようと思っていたが、父が制止し厳しく叱責されて結局参上しなかった。理由はよくわからない。
[注釈]
・御仏名:仏名会。この日の仏名会は秉燭後、六波羅で行われた。
・庭訓:家庭内の教訓や躾をさす。『明月記』では、俊成が定家を諫める場面で頻出の表現。
メモ
噂に名高い俊成の「庭訓」である。激動の一年ともいうべきこの年は、十二月になっても不穏な状態が続く。十一日には延暦寺と園城寺が焼かれ、二十八日には平重衡が東大寺・興福寺を攻めている。その渦中にあって、重篤な高倉院のもとに参じることを憂慮したのだろう。定家はこの二日前にも、後白河院が仏名会に参上する旨のお召しを噂で聞き、高倉院のもとに参じて名謁(点呼によって官職と氏名を答える作法)を行っている。なおこのとき、後白河法皇と高倉院は六波羅池殿に同宿していた。
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藤原定家●謎合秘帖 幻の神器 (角川文庫)
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