保元の乱の首謀者として讃岐に流された崇徳院。そしてその曾姪孫(甥の孫)にあたり、承久の乱で流された父・後鳥羽院、弟・順徳院の身の上を憂い、自ら懇願し阿波に流された土御門院。この二人を追ったレポート。
Field work on SUTOKU Tenno & TSUCHIMIKADO Tenno.
SUTOKU Tenno[1,Jul,1119~14,Sep,1164(28,May,Genei2~26,Aug,Chokan2):75nd emperor(reigning:1123~1142)and Retired Emperor].
He was defeated in the "Hogen War(1156)" and exiled to SANUKI. It is said that he later became an "Onryo(evil spirit)" due to a longstanding grudge. He is one of the three major Japanese "Onryo".TSUCHIMIKADO Tenno[4,Dec,1195~6,Nov,1231(1,Nov,Kenkyu6~11,Oct,Kanki3):83nd emperor(reigning:1198~1210)and Retired Emperor].
He was opposed to the "Jokyu War (1221)". However, he was grieved by the exile of his father and brother, and went to AWA, hoping that he too would be exiled.
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怨霊とは何か - 菅原道真・平将門・崇徳院
目次
2019年晩夏。
順徳院をめぐる佐渡の旅から戻って数か月経った頃のママとの電話にて……。
私「この後の土御門院についてなんですけどね」
ママ「ワタシはとにかく時間を持て余してますのでいつでもいいんですけどね」
私「それで、今年年末なんてどうでしょうかね? 来年になったらオリンピックがあるし、そうなったら陸路も空路も混み合うだろうし。まあまず来年の夏は避けるべきと思うんです。となると今年末を逃せば来年末まで伸びてしまうし……」
ママ「あら、それは全然考えてなかったわ。そうね、オリンピックがあるわね」
私「で、混み合わないということを念頭に今年末で……」
ママ「そうね。じゃあそうしましょうか」
私「それと、土御門院をお参りする前に、やっぱり崇徳院にご挨拶しておいた方が……」
ママ「あ~」
私「いや、全然"怨霊"とかそんなことに怖気づいてるってワケじゃなくて、やっぱり四国に流されたのって崇徳院と土御門院なわけで、順番ってあると思うんですよ」
ママ「まあ私は怨霊的には後鳥羽院の方が崇徳院の何十倍も力持ってると思ってるから、そこらへんはどうでもいいんだけど、せっかくだから行ってみてもいいわね」
こんな相変わらずのやりとりの結果、2019年末、上京の折を見て四国に赴いたわけで……。
羽田から高松へ飛び、バスで坂出駅前のバス停に降り立ったのは午後8時ごろ。
私の住む北海道はすでに極寒の装いなので、この地に降り立ってまず
「暖かい! てか若干汗ばむわ!」
身体の慣れというのは恐ろしいものだなと思いつつ、ママの待つ宿へと急いだ次第。
今回は一日目に崇徳院をめぐり二日目に土御門院をめぐり現地解散という流れだったので、佐渡同様レンタカーでの移動を選択した。
ママはいつもながらに「時間はたっぷり持て余している」というものの、私は私で上京の折にこなすべき予定が山積している身の上なので、なるべく効率よく移動しようという算段。
私自身は香川にも徳島にも来たことはあったけどクルマを運転するのは初めてなので、ローカルルール等に若干の不安を抱えつつも翌朝さっそく出発した。
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父に嫌われた天皇~崇徳院~
・白峯陵
まずはここを訪れなければということで、崇徳院を祀る白峯寺白峯陵に向かった。
……とその前に解説を入れておくと、白峯寺は四国八十八箇所霊場の第八十一番札所にあたるので正規の山門がちゃんとあるのだが、その山陰の方にある青海神社からも参道が続いている。
青海神社は白峯山で崇徳院が荼毘に伏された際「当地に紫煙棚引き留まるも、その煙しばらくして消え失う跡にて一霊残りたま」ったとして、その霊を奉斎したことが由来とされ通称・煙ノ宮とも呼ばれている。
またこの青海神社から白峯凌までの参道は、西行がかつて御陵を詣で法楽した際に通った道といわれ、平成15年に「西行の道」として整備されている。春などには満開の桜のトンネルが見ごろだという。
で今回はせっかくなので青海神社にお参りした後、この西行の道を通って白峯陵へ向かうことにした。
路傍には西行はじめさまざまな歌人の歌碑が並ぶ。
……一応整備されたと前述しましたが、階段の数はおよそ800。なにより高低差が230mもある。
ママ「ちょ……ちょっと待ってね……ハァハァ」
私の完全なミス。この老女の体力をまったく考えていなかった。
途中休憩所のようなところがあるが、それ以外はずっと石段もしくは山道だ。整備されているとはいえなかなかキツイ。
地元の方だろうか、何人かすれ違った人たちは皆トレーニングウェアだったことを考えれば、ここは散歩コースというより少しきつめのジョギングコースといった感じだろうか。
で、なんとかかんとかしてやっと御陵に行き着いた。
日本史上最恐の怨霊のひとりと謳われる崇徳院。その陵としてふさわしい堅牢さを湛えていた。
やっぱり石段が続く。
鬱蒼としているように見えて、細かいところまで手入れが行き届いている感じに崇徳院の壮絶な生き様を見て取れる気がした。
御陵周辺は白峯山の中腹にあたるのでなかなか見晴らしがよく、瀬戸内海も見て取れた。
・高家神社
次に向かったのは青海神社からぐるっと白峯山をまわったところ、白峯寺への正面にいたる五色台線の袂に位置する『高家神社』。
こちらは青海神社が"煙ノ宮"と称されるのと比し、通称・血ノ宮と呼ばれている。
崇徳院薨去の後、その御棺を白峯に運ぶ途中で突然風雨雷鳴があり、当時の高屋村阿気の地で御棺を休め奉った時の臺石とした六角の石に血が少し滴り落ちたという伝承がその名の由来だ。
境内に入って正面にある拝殿、その右奥にその石が安置されている。
「御棺臺石」
鳥居前にも「血ノ宮」と書かれた碑があり物々しい雰囲気を醸し出しているが、境内自体はキレイに掃き清められ、また民家も近くほのぼのとした雰囲気。
先の青海神社でもそうだったが、ここでも崇徳院のほかに母・待賢門院(藤原璋子)も祀られている。
待賢門院(藤原璋子)はその生前にさまざまな黒幕としての立ち位置が風説され、崇徳院も父・鳥羽院ではなく祖父・白河院の落胤だとする説もある。よって鳥羽院は崇徳院を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたといわれており、そこだけ取り出せば、崇徳院の悲劇の根源である待賢門院もともに祀られているというのはあまりにも皮肉なことと感じてしまう。
今でもこの時代に関連するドラマや小説などには必ずといっていいほど取り上げられる逸話だが、その出典はというと鎌倉初期の説話集『古事談』にのみ記述があるだけで真偽は不明のままだ。
もちろん崇徳院の壮絶な半生を彩るには格好の素材かもしれないが、それにしてはあまりに通俗的すぎるきらいがあるように思う。
・雲井御所跡
そしてこちらは「雲井御所跡」。
崇徳院の讃岐配流があまりに急だったため御所の用意が出来ず、土地の豪族で讃岐国府の役人だった綾高遠(あやのたかとお)の松山の御堂を仮住まいとしていた。
後に南部の鼓府中鼓ヶ丘木ノ丸御殿へと移住するまでここに住んでいたと伝わっている。
当時はすぐ近くまで海岸線だったようだが、後に埋め立てられたという。また後年、近くの綾川の洪水によりこの御所は流失してしまったが、天保6(1835)年、高松藩藩主・松平頼恕(まつだいらよりひろ)が場所を推定・整備し、雲井御所之碑を建てた。当時、現在の高松市に住んでいた綾高遠の後裔・綾繁次郎高近を移住させ、田地2ha(2万平方メートル)を与えて永代碑の見守りを命じた。綾氏は石碑の前に大蘇鉄を二株植えたといわれ、今でも繁っている。ご子孫は現在もこの碑のすぐ隣にお住まいだ。
・白峯宮
大分昼に近い時間になって訪れたのが予讃線八十場駅近くにある『白峯宮』。
江戸時代までは崇徳天皇社で、隣接する天皇寺(四国八十八箇所霊場の第七十九番札所)はその当時の別当寺にあたる。
崇徳院は雲井御所ですごした後、府中鼓ヶ丘木ノ丸御殿(現在の鼓岡神社)に幽閉されたと伝えられている。そこで崩御した崇徳院の玉体は、白峯陵で荼毘にふされるまでの間、この白峯宮後方にある清水に浸されていたといい、当時は野澤井の清水(のざわいのしみず)、現在は弥蘇場の清水(やそばのしみず)と呼ばれている。ちなみに"やそば"は"八十場""八十八"などとも表記される。
京から検視の使者が到着するまでの約1か月間、この冷泉にひたされた崇徳院の玉体はまったく腐敗しなかったと言われている。またその間、院の御所跡から毎晩光がさしていたといわれ、この白峯宮は明ノ宮(あかりのみや)とも呼ばれている。
冬場とはいえ水はほのかに温かかった。
ちなみにこの時はお休みだったが、この冷泉のすぐ横には江戸時代からつづくところてん屋がある。
この冷泉横の道から白峯宮・天王寺方面へつづく約1kmの道は「崇徳天皇彌蘇場道」として整備され、33の石仏が並んでいる。
・鼓岡神社
綾川沿いに坂出市南部へ移動。
こちらは讃岐国府跡。
古墳時代の遺跡・遺物、讃岐国府跡の調査を行っている香川県埋蔵文化財センター近くにある『鼓岡神社』へ。
先述したが、雲井御所ですごした崇徳院は後にここへ建てられた些末な木ノ丸御殿に幽閉され、長寛2(1164)年8月26日、46歳で崩御したと伝わる。
現在境内には当時の御殿を模した「擬古堂」という建物がある。これは大正2(1913)年の崇徳上皇750年大祭の際に建てられた。
『白峯寺縁起』によると、実際に崇徳院が暮らしたとされる御殿は遠江阿闍梨章實により御陵近くに移築され、頓証寺殿となったと言われている。
この鼓岡神社の周辺には崇徳院にまつわる史跡が点在しているおり、崇徳院が使った食器を埋めたとされる「わん塚」や木ノ丸御殿の井戸として使われていた内裏泉(だいりせん)などが残されている。また江戸時代に書かれた地誌『讃州府誌』に登場する「崇徳院暗殺説」の現場とされる「柳田碑」なんかもある。
ちなみにこの"鼓岡"という地名は、神社のある丘の頂上付近の地面を叩くと「コツ、コツ」と鼓のような音がしたことが由来とされ、円墳または前方後円墳だったのではと考えられている。
≪余談≫
崇徳院関連の史跡はほぼ坂出市内に収まっていることもあって、午後の早い時間には今回予定した史跡を全て周り切ってしまったので、ママと少し遅めの昼食をとりに……。
ママ「なんだかんだ香川に来たらやっぱりうどん食べてみないとね~」
そう、ここはいわゆる「うどん県」の異名をもつメッカではないか!
スマホで近場の有名店など調べてみたが、残念ながらどこもすでにランチタイムは終了していたので、今回の宿近くにあった某チェーン店へ。
ママはセルフサービス形式の店に不慣れだったようで多少手間取ったりしたが、念願(?)だった「さぬきのうどん」にありつけたわけで。しかし食後ママはこんなことをポツリ。
ママ「でもワタシ、うどんに"コシ"って求めてないのよね~。出汁吸ってブヨブヨになったくらいが好きなのよ~」
ハイ、ママってこういう人ですw
閑話休題、で翌日。
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承久の乱に反対した賢王~土御門院~
この日は朝早い時間から香川県坂出市を出発し、今度は土御門院の史跡を巡るためまずは徳島県阿波市へ。
今回は四国北部を走る「中央構造線」をひさびさ体感してみたかったので、国道438線にて香川県まんのう町から徳島県美馬市へと出るルートで讃岐山脈越えへ!
湯山荘「阿讃琴南」の駐車場で一休み。
一気に高いところへあがってきた感がある。
この日は雨降りだったこともあり、こののち霧はだんだん濃くなっていった。たぶん麓から見れば雲の中だったんだろうな。
運転してたから全然写真が撮れなかったけれど、三頭トンネルを抜けて美馬市に入りつづら折りの山道を下り始めたころには周囲はまるっきりの濃霧! 一面真っ白だった!
ホント写真ないのが悔やまれる……orz
さて、美馬市に入ってからはなんやかんやあったけどそれらはすっ飛ばし、県道12号線・川北街道(撫養街道)を東進。
両側に小高い山脈を見ながら中央構造線を実感! この街道沿いには脇町うだつの町並みや阿波の土柱など、結構観光するには面白い場所があるのですが、案の定今回はスルーで。
・土御門上皇行宮跡
小雨降るなかたどり着いたのは阿波市土成町にある『土御門上皇行宮跡』。正確な字名まで記せば阿波市土成町吉田御所屋敷というところにある。文字通りこの字名は皇族の住まう"御所"があったことに由来している。
土御門院は承久の乱自体には直接関与していなかったものの、父・後鳥羽院、弟・順徳院がそれぞれ隠岐と佐渡に流されるに及んで忍びないと自ら遠流を申し出たとされている。
保元の乱より後醍醐帝崩御までを記した『保暦間記』巻之中には次のような記述が見える。
「(義時追討の宣旨を受け)中院、是ハ時至ラヌ事也、悪キ御計哉ト随分諌為申給ケレドモ不叶。(中略 承久の乱後、後鳥羽・順徳両院が流されるという話しを聞くに及んで)中院ハ此事御同心ナクテ諌メ為申給ヒケレバトテ都ニ止メ申ケルヲ一院カク成セ玉フ上ハ、一人留ルベキナラズト仰ラレテ、閏十月十日阿波国へ下ラセ給ケリ。忝キ御事也。カクノ如キノ賢王ニテ御座ケレバニヤ、此御末ノ後ニハ御位ニ御座シケル。」
また『増鏡』「新島もり」では
「中院(土御門院)は初めより知ろしめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院(後鳥羽院)、遙かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐の国の畑といふ所にわたらせ給ひぬ。」
と記されている。
当初土佐の畑(幡多)に流されたが、その後貞応2(1223)年により京に近い阿波国下庄栖養(しのもしょうすがい)の松木殿に移された。鎌倉幕府も父弟両院とは違い厚遇したようで、守護に対し行宮造営を指示し(『吾妻鏡』嘉禄3年2月13日条)、嘉禄3(1227)年よりここへと移り寛喜3(1231)年に崩御したと伝わっている。
行宮跡には諸説あり、同じ阿波市土成町吉田にある御所神社もそのひとつだ。ちなみに土成町吉田は第66代内閣総理大臣・三木武夫の出身地である。
それにしてもこの行宮跡は畑の真ん中にポツンと建っている。
ちょっと歪んだ合成になったが、全体像はこんな感じ。
多少公園としての体裁を保つ程度に整備はされているが、行宮で使われていたといわれる井戸の跡などはまるっきり畑の中だった。
・松木殿
御所屋敷の行宮跡然り、先述の松木殿(松の木殿とも)もまた似たような佇まいだった。
県道12号線から14号線に入りしばらく行くと板野町に入る。するとまもなく下庄地区になるのだが、その住宅街の真ん中に建つ栖養八幡神社の裏手に松木殿跡はある。
町指定史跡ということもあって駐車場も用意されているが、雰囲気的には民家の庭先におじゃましている感じがある。
平成4年に整備しなおされたらしく、社殿もろもろ真新しい。
土御門院はここで
「里馴れて をち帰り啼く ほととぎす
栖養の杜乃 杉のこずえに」
という御製を詠んだと伝わっている。
この後、最終目的地である土御門天皇火葬塚へ向かうクルマの中でママとこんな話しをした。
ママ「それにしても、土御門院の史跡に関しては……なんだかうち捨て置かれているというか、皇族からも忘れ去られてしまってるというか」
私「そうですね。京や宮内庁というよりむしろ地元の方々に慕われ守られている感じがありますね」
ママ「隠岐でも佐渡でもそうだったけど、かならず皇族の歌碑があったりしたじゃない? でも行宮跡にも松木殿にもそれすらなかったわよね?」
私「後鳥羽院や順徳院、それに昨日まわった崇徳院みたく怨霊化云々の懸念が土御門院には当時からなかったから、とかですかね?」
ママ「それだったとしても、特に明治以降の皇族が誰も立ち寄った形跡がないってのはあんまりじゃない?」
私「確かに。若干無視されてる感はありますね」
ママ「なによりすったもんだあったとはいえ、四条帝の次が後嵯峨帝、まあ土御門院の息子よね? 結局順徳院の方の忠成王(仲恭廃帝の異母弟)は皇位継承できなかったわけなんだし」
順徳院の記事にも書いたが、順徳院は佐渡配流後、特に晩年に至っても帰京を熱望していた。その晩年の仁治3(1242)年には、急死した四条天皇の皇位を誰が継承するかで京はにわかに騒然としていた。順徳院は自らの子息である忠成王の擁立を願い、九条道家ら京の有力公卿層もそれを支持していたが、鎌倉方の強い反対を受け、承久の乱において中立的な立場にいた土御門院の子息・邦仁王が皇位継承することとなった。順徳院は絶望の末、同年9月に崩御した。
この邦仁王こそ、後の御嵯峨天皇である。
邦仁王擁立の背景には公家と武家との水面下での駆け引きがあったようだが、その解説はあまりに冗長になるので割愛する。しかし当時の公家の日記(『平戸記』『民経記』ともに仁治3年正月19日条)などにはこの擁立劇を非難する記述もみられ、少なからず公家社会に衝撃を与えたことがわかる。
またこれはあくまで伝承だが、土佐に流される途中の土御門院が白峯陵の近くを通りかかった際、その霊を慰めたところ夢枕に崇徳院が現れ、土御門院自身と京にいるその家族の加護を約束したという話しがある。ちなみに土御門院は、崇徳院の同母弟にして保元の乱で対立した後白河院の曾孫にあたる。
いずれにしても後嵯峨天皇の誕生は、その後の後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の流れを生みだし、北朝南朝の確執が続く南北朝時代への布石となった。
・土御門天皇火葬塚
JR四国の高徳線と鳴門線が合流する池谷駅からほど近い山麓にある阿波神社。その鳥居のすぐ傍らにあるのが土御門天皇火葬塚だ。
土御門院の御陵は京都府長岡京市にある金原(かねがはら)陵だが、火葬塚はご多分に漏れず当地阿波にある。
寛喜3(1231)年37歳で崩御し、ここで荼毘に伏されたと伝わっている。
火葬塚は周囲を濠で囲まれた円墳で、両脇に陪塚を伴っている。ここで荼毘に伏された土御門院の亡骸は先述の金原陵に納められたという。
火葬塚の傍らにある阿波神社は土御門院を祭神とし、古くは江戸時代の地誌『阿波志』において「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」という記述がみられる。
明治期に丸山神社と改称したのち、昭和15年の紀元二千六百年記念行事において阿波神社に改め、現在地に新たな社殿が造営されるに至った。
なおこの折、時の昭和天皇からは管理費として幾ばくかの下賜があったとも言われている。
しかしここもまたこれまでの史跡同様、火葬塚正面に例の宮内庁の立札があるばかりで、後の皇族が訪れたという形跡はどこにも見当たらなかった。
父・後鳥羽院、弟・順徳院は気性も性格も考え方も似通っており、関係性も篤いものがあったという。一方の土御門院はそんな二人とは正反対の、温厚で柔和な性格だったといわれている。
もちろん"日本中世史屈指のジャイアン"後鳥羽院のことだから、土御門院のことをあまり頼もしく思っていなかったことだろう。
しかしそうした性格が幸か不幸、前掲の『保暦間記』などの記述にみられるように、父弟を憐れむ慈悲深い賢王としての印象を強く与えられるに至る。
火葬塚を後にして阿波神社の境内を歩んだ。
創建100年と建たない社殿だが、華美に飾られることなく穏やかな印象を受けた。それはどこか、土御門院の人となりを今に伝える風でもあった。
ふとママの姿を探すと、じっと社殿を見つめたまま物静かに立ちすくんでいた。
なんとなくだが、今に至って顧みられることのない土御門院の生き様を憐れんでいる、そんな表情に見えた。
エピローグ
ママ「まぁ徳島まで来て念願の『ジョ○フル』に立ち寄れるだなんて、思ってもみなかったわ!」
先ほどまでのアンニュイな雰囲気はどこへやら、いつの間にかいつものママに戻っていた。
ママは、後鳥羽院のはじめに書いた通り、下町生まれの山手育ち、身も心も根っからの江戸っ子。これまでの人生の大半をご町内近隣ですべてがまかなえる生活環境にいたわけで、関東近郊の某市へ引っ越して以降は物珍しさのあまり「スーパーマーケットおよびファミレス」研究家(自称)の側面も持つようになっていた。
そしてかねがね名前は聞いていても、ついぞ訪れたことがなかったのが今回立ち寄った某チェーン店だったらしい。
遅い昼食を済ませ、せっかくだからと、普段旅行に出ても目的地以外に一切興味がないというママと連れ立って鳴門の渦潮を見に行った。
一応告白しておきますが、わたしは知っていたんですよ。鳴門の渦潮って、別にいつでもかつでも見られるわけじゃないって。時間が限られてるんだって。……でもなんとか理由をつけてママを連れ出したかった。というのも、鳴門海峡を挟んで淡路島、その更に向こうに京の都を臨む方向を、この旅の最後に眺めておきたかったのだ。
遠流地で果てた崇徳・土御門両院。それぞれが抱えた背景は違えども、京より遠く離れた地で抱いた望郷の念は違わぬところだろう。それを800余年の時を経て、瀬戸内の風を受けながら一身に感じ取りたかった。
なんとも気障たらしいこととも思ったが、旅の締めくくりには良いだろう。
重々しい曇天の雲の下に淡路の島影が見えた。灰色がかる空を映した鈍色の波間は、それでいて実に穏やかだった。
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徳島県 地学のガイド―徳島県の地質とそのおいたち
・後日談
旅先から帰ってくるとすぐに年越しとなった。
師走の頃より、中国・武漢で謎の新型ウイルスの話しが巷にも徐々に広がり始めていたけれど、年をまたいでその脅威は日本にも差し迫ってきていた。
そのいわゆる「コロナ禍」が日本全国を席巻する直前、ママから電話があった。
ママ「ちょっと、パパっとだけど金原陵まで行ってきたのよ」
相変わらずのフットワークの軽さである。
曰く、徳島同様、京都・長岡京市在の金原陵もまた、他の天皇陵に比してあまり顧みられていない風を呈していたようだ。
しかし、ここまで来ると私とママとの間には一つの共通項が残った。つまり、隠岐でも佐渡でもそうだったが、その郷里・郷土のひとびとにとっては今なお大切に扱われている、そのことだけは確かだった。
ママ「そうそう、御陵までの道聞くとね『ああ、天皇はんまでか?』とか、やっぱりそんな感じなのよ」
と、ここまで来ると、隠岐や佐渡、また京都周辺を再度訪れたくなってきた。特に隠岐では交通事情もあって、見逃してしまったポイントも多い。
これは再訪すべしと思っていた矢先、緊急事態宣言が発表されてしまった。
加えて個人的に身辺がいろいろザワついていたことも手伝って、本来ならこの隙に出来た調査・研究も遅々として進まなかった。
なにせ本稿が取材から一年後にこうして日の目を見ているのだから救いようがないw
なにはともあれ、溜まったものを少しずつこなして行こうと思う今日この頃。
参考文献
・『増鏡』『今鏡』<合本、国民文庫刊行会、明治43年>
・日下力訳註『保元物語』<角川ソフィア文庫、平成27年>
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保元物語 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
・『大日本史料』第4篇<東京大学出版会,昭和56年>
・『吾妻鏡』岩波文庫 黄118-1~5<岩波書店、2008年>
・増補史料大成32・33『平戸記1・2 妙槐記』<臨川書店、昭和40年>
・大日本古記録『民経記』<岩波書店、2001年>
・佐伯 真一、高木 浩明『校本 保暦間記』<和泉書院、1999年>
・山内益次郎『今鏡の周辺』<和泉書院、1993年>
・目崎徳衛『史伝 後鳥羽院』<吉川弘文館、2001年>
・関幸彦『承久の乱と後鳥羽院』<吉川弘文館、2012年>
・藤井喬『土御門上皇と阿波』<土成町観光協会、昭和50年>
・武田勝蔵『土御門天皇と御遺蹟』<御所神社奉讃会、昭和6年>
・『阿波学会研究紀要』郷土研究発表会紀要第36号<阿波学会、1990年>
・山田雄司『怨霊とは何か』<中公新書、2015年>
・渡邊大門『流罪の日本史』<ちくま新書、2017年>
などなど……