我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち
川端裕人 著 , 海部陽介 監修
出版社:講談社(ブルーバックス)
発売日:2017/12/12
人類が現れる前、アジアには誰がいたのか? そしていつ来たのか?
2003年インドネシアでのフローレス原人発見は、成人でも身長1mほどしかない新種の小型原人が存在したとして人類史を書き換えるほどのセンセーショナルなものだった。
またこれまで知られてきた北京原人やジャワ原人以外にも、複数種の人類が同時期のアジアにいたことも分かってきた。
講談社科学出版賞および科学ジャーナリスト賞のダブル受賞を果した本書は、フローレス原人の発掘研究の過程を中心にアジアにおける人類史を分かりやすく解説してくれている。
ホモ・サピエンス(現生人類)がアフリカから出現したことは疑いようのないことのようだが、それ以前にもたくさんの(日本では原人や旧人として表記される)人類が存在していたことが最近の研究で明らかになってきている。
それと同時に、なぜ現生人類以外の人類が絶えてしまったのかという理由も浮かび上がってきた。
われわれ人類は、交流や共有という過程によって「均質化」することで万物の長としての特性を得た。効率や管理・監視を優先する人類の保守性を生態由来とする指摘は鋭い。
一方、「均質化」の対岸にある「多様性」は、隔絶や孤立という過程の延長線上にある。
その多様の極致が、わずか30万年のうちに島嶼効果により小型化したフローレス原人の姿だ。石器を扱う時期の人類であっても、他の動物同様に小型化の進化を遂げるという真実には衝撃を受ける。
そしてその真実が科学的に研究・検証されていく過程も分かりやすく解説されており、大変に興味深い。
最後半部では近年指摘されてきている原人・旧人と現生人類の交雑などの話題にも触れながら、今後の課題と進展方向への指摘もあり、これからの発見によって人類とは「われわれ」だけではないことがより明確になってくるであろう期待を抱かせてくれる。
現在のわれわれの社会環境においても、グローバル化と多様化はしばしば対立する概念として立ち現れてくる。
自然人類学における化石人類と現生人類の比較は、われわれの行く末をまた暗喩的に示しているのかもしれない。
ちなみに、随所で登場する監修者の海部先生だが、とても楽しそうだ。著者からの疑問・質問に対してウッキウキで回答・解説しているであろう姿が目に浮かぶw