無頼派の小説家・坂口安吾の妻・三千代さんが書いたエッセイ『クラクラ日記』。前回、無頼派ゆかりのバー『ルパン』の記事を書いて思い出した。
表題の“クラクラ”は安吾の死後に三千代さんが開いたバーの店名で、フランス語で「野雀」や「垢だらけの~」という意味の“cracra”からきているそうな。命名は獅子文六氏によるらしい。
本書は安吾との出会いの場面からはじまる。
坂口安吾という作家について多少なりとも知る人ならばその破天荒なエピソードの数々は語るまでもないが、他によるまでもなく本書で十二分過ぎるほど語られている。あまりにも有名な混沌たる書斎の話し、ヒロポン中毒と酒にまつわる逸話、ライスカレーを100人前頼んだこと、競輪八百長事件の顛末、そしてその突然の死。……
強烈すぎる個性の持ち主の安吾のその妻も相応に、彼の全てを受け入れられるほどに強烈だ。本文中、自身を「私はボンヤリだから…」などと評しているが、読むだにつけてもそれだけでは到底許容できない逸話が並ぶ。ご本人の自覚しないところでの懐の深さと愛を本書を読む中で否応なく感じさせられる。
個人的に、安吾や太宰を筆頭とするいわゆる無頼派の作家たちのその破天荒で支離滅裂でデタラメな私生活は、そうした生活をしていたその時点で、本来的な意味での彼らの文学的な問題を全て解決していたと考えている。文学者としてその根底にある文学的な問題を、そのメインステージではないところで解決してしまっているのならば、なぜ彼らはそれでも書いていたのか? その問題への解答が本書に綴られるような彼らのプライベートを垣間見ることで得られた気がしてならない。
本文中のエピソードとして深く印象に残っているのは、冒頭の方に出てくる逸話だが、結婚前、自身を口説いているというのに芸者をあげて宴会をし、挙げ句その芸者の一人と泊まろうとした寸でで止めに入った著者は、翌朝、ふと縁側で佇む安吾を見て「厳しい爽やかさ、冷たさ、鋭く徹る」ような表情にギョッとしたという。その後も何度かこの表情を垣間見たというが、こうした場面にこそ彼らの本質があるように思う。
私生活でその文学的な問題が解決してしまっている以上、彼らの著作品で語られることの全ては至極“マットウ”なのだ。いわば正論だ。しかし、正論を説かれたところで人は動かない。そう簡単に理屈だけで納得するほど人間も単純ではない。ではなぜ彼らの正論は深く心に突き刺さるのか? それはその“マットウ”な意見が、須らく「生きた」正論だからだ。幾重にも塗り重ね、重ね着られた心の有漏を、彼らはその私生活の中で脱ぎ捨て真っ新な白日の下に本心のありのままの姿を描き切った。ここが無頼派が書き続けた理由であると、そう思う。故に洗練された言葉が滔々と並ぶのだ。そして残念ながらその言葉たちがまたカッコイイんだ。……
なにはともあれ、坂口安吾という作家の一面を深く浮き彫りにした名著。最近あまり読み返していないが、以前は旅先に出る際にはいつも持ち歩いていた。
憧れではない。素直に面白いんだ。
ちなみに、安吾・太宰に並ぶ織田作之助の奥さんが開いた店は“アリババ”という名前だ。
坂口安吾 [ちくま日本文学009] | 太宰と安吾 檀一雄 |